2016年08月
2016年08月31日
神話・日御碕・斐伊川
神話
大社の因幡の白兎
雲南市木次町にある八本杉。八岐大蛇(やまたのおろち)を埋葬したという。
奥出雲町・たたらと刀剣資料館の八岐大蛇。
そこで手に入れた子ども風土記。
勾玉を作っていたという地域の玉造湯神社も訪ねた。
日御碕
日御碕は3回目。
神話には海のものと山のものがあるが、ここは海。いつも神話的。
斐伊川
斐伊川は中国山地から発して出雲平野を流れ宍道湖にそそぐ豊穣の川。
下流のこのあたりでは、広い河川敷に水量少なく蛇行して流れていた。おろちのようだった
ずっと前に来たとき、案内してくれた人からこの風景について聞いた。
農家が散らばってできる散居村。
それぞれ築地松という松の塀をつくる。斐伊川の築地松については、山川出版の『日本の街並み』にも載っている。
斐伊川をさかのぼる。
木次町あたりは、水量もなみなみとゆったりと流れている。
潜水橋(沈下橋)。
斐伊川をさらに上る。吉田町は広島県にすぐの山間地。吉田川は斐伊川の源流。
ここはかつて、たたら(製鉄)のメッカだった。田部家は今でも立派。街並みも素晴らしい。
稲むら工房で、ぼくが間違って銀杏も色ずんでいますねと言ったら、その女性はわざわざ外に出て、これは桂です、春の芽吹きには3日間真っ赤に咲きます、そのあとは全体が1週間黄色になって、そのあと緑になります、それはそれは見事です、という。
吉田川は鉄分が多いらしく、川床も赤かった。
さらに奥に行き、かつての製鉄工房だった菅谷高殿に行く。
ここの桂はもっと巨樹だった。
大社の因幡の白兎
雲南市木次町にある八本杉。八岐大蛇(やまたのおろち)を埋葬したという。
奥出雲町・たたらと刀剣資料館の八岐大蛇。
そこで手に入れた子ども風土記。
勾玉を作っていたという地域の玉造湯神社も訪ねた。
日御碕
日御碕は3回目。
神話には海のものと山のものがあるが、ここは海。いつも神話的。
斐伊川
斐伊川は中国山地から発して出雲平野を流れ宍道湖にそそぐ豊穣の川。
下流のこのあたりでは、広い河川敷に水量少なく蛇行して流れていた。おろちのようだった
ずっと前に来たとき、案内してくれた人からこの風景について聞いた。
農家が散らばってできる散居村。
それぞれ築地松という松の塀をつくる。斐伊川の築地松については、山川出版の『日本の街並み』にも載っている。
斐伊川をさかのぼる。
木次町あたりは、水量もなみなみとゆったりと流れている。
潜水橋(沈下橋)。
斐伊川をさらに上る。吉田町は広島県にすぐの山間地。吉田川は斐伊川の源流。
ここはかつて、たたら(製鉄)のメッカだった。田部家は今でも立派。街並みも素晴らしい。
稲むら工房で、ぼくが間違って銀杏も色ずんでいますねと言ったら、その女性はわざわざ外に出て、これは桂です、春の芽吹きには3日間真っ赤に咲きます、そのあとは全体が1週間黄色になって、そのあと緑になります、それはそれは見事です、という。
吉田川は鉄分が多いらしく、川床も赤かった。
さらに奥に行き、かつての製鉄工房だった菅谷高殿に行く。
ここの桂はもっと巨樹だった。
2016年08月30日
国引き
島根は、宮崎と並んで、神話の国である。いや、ぼくの狭い経験の限りでは高千穂に集約される宮崎以上である。
国引き、因幡の白兎、八岐大蛇、史実でもあるが、たたら、玉造、出雲阿国。
たまたま通りかかった古墳の丘。
そこの解説によれば、旧石器時代、島根は隠岐の島まで陸続きだったという。
逆に、縄文海進のときには、今の島根半島は島になった。
それが、土砂の堆積などで宍道湖や中海を残して陸続きになり、弥生時代、富を持つ者があらわれ、古墳時代になる。
神話が文章化されたのは、そのあとの奈良時代の8世紀。
国引き神話は、島根半島が島だった縄文時代以来の人々の記憶(伝承)から生まれたのではないか。
丘から宍道湖を見て、そんな妄想を抱く。
大社近くには、国引きの巨大なレリーフ。
道路を隔てて出雲阿国の銅像もある。
少し離れた墓も詣でた。
国引き、因幡の白兎、八岐大蛇、史実でもあるが、たたら、玉造、出雲阿国。
たまたま通りかかった古墳の丘。
そこの解説によれば、旧石器時代、島根は隠岐の島まで陸続きだったという。
逆に、縄文海進のときには、今の島根半島は島になった。
それが、土砂の堆積などで宍道湖や中海を残して陸続きになり、弥生時代、富を持つ者があらわれ、古墳時代になる。
神話が文章化されたのは、そのあとの奈良時代の8世紀。
国引き神話は、島根半島が島だった縄文時代以来の人々の記憶(伝承)から生まれたのではないか。
丘から宍道湖を見て、そんな妄想を抱く。
大社近くには、国引きの巨大なレリーフ。
道路を隔てて出雲阿国の銅像もある。
少し離れた墓も詣でた。
島根
大東文化大学に来たその年だったと思うが、教科研の全国大会が松江で開かれて参加した
初めての島根だった。もう40年も前のことだ。
当時、非常勤講師でゼミを持っていた明治学院の学生たちが二人、いっしょに参加した。
行ってみたら、大東文化を卒業して小学校教員になったばかりのTさんも来ていて驚き、うれしかった。縁結びの出雲大社のおかげかもしれない。
大会終了後、4人で小泉八雲旧居や出雲大社で遊んだ。
そのあと、H先生と相談して2人で隠岐の島に行くことになった。
そのころ、ぼくは国分寺市の公民館の青年教室で講師をしており、そこに参加していた都留文科大学の学生で、隠岐の島出身のTさんがちょうど帰省中だったこともある。
フェリーで渡って、海で遊んだり、島の荒々しい盆踊りに出たりした。
2泊して、お金も尽きた。ぼくは、銀行の通帳を持って行ったのだったが、当時松江や隠岐の島にはその支店がなく、ATMもない時代だった。
高知へ行くH先生は岡山の友人を訪ね、ぼくは鳥取の学生を頼って、松江で別れたのだった。その後、外国を含めて何度も旅をすることになったH先生との最初の旅になった。
***************
最近(4月と7月)、写真の2冊が相次いで出版された。
いずれも古代出雲が対象である。
「国引き」神話など「出雲風土記」が扱われている。「出雲風土記」は、記紀(古事記と日本書紀)のどちらに引き付けて理解するかということが論議の分かれ目であるらしい。
国引き神話とは、現在は島根半島になっている4つの島を海のかなたから綱をつけて引っ張ってきたというものだが、平野さんは正統的に日本書紀に引き付けて理解し、三浦さんは古事記にひきつけて理解しようと主張しているようだ。
***************
40年前の初島根以来、何回か島根に行った。
多くは、教育研究の会合のためである。ここ2年ほどは、出雲駅伝や青桐会など大学の仕事でも多かった。ゆっくり見たいと思った。
台風のさなか、飛行機の欠航が相次ぐ中で飛び立った。ラッキー!と思ったが、飛行機は揺れた。ラッキーじゃなかったかもしれないと少し本気で思った。
初めての島根だった。もう40年も前のことだ。
当時、非常勤講師でゼミを持っていた明治学院の学生たちが二人、いっしょに参加した。
行ってみたら、大東文化を卒業して小学校教員になったばかりのTさんも来ていて驚き、うれしかった。縁結びの出雲大社のおかげかもしれない。
大会終了後、4人で小泉八雲旧居や出雲大社で遊んだ。
そのあと、H先生と相談して2人で隠岐の島に行くことになった。
そのころ、ぼくは国分寺市の公民館の青年教室で講師をしており、そこに参加していた都留文科大学の学生で、隠岐の島出身のTさんがちょうど帰省中だったこともある。
フェリーで渡って、海で遊んだり、島の荒々しい盆踊りに出たりした。
2泊して、お金も尽きた。ぼくは、銀行の通帳を持って行ったのだったが、当時松江や隠岐の島にはその支店がなく、ATMもない時代だった。
高知へ行くH先生は岡山の友人を訪ね、ぼくは鳥取の学生を頼って、松江で別れたのだった。その後、外国を含めて何度も旅をすることになったH先生との最初の旅になった。
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最近(4月と7月)、写真の2冊が相次いで出版された。
いずれも古代出雲が対象である。
「国引き」神話など「出雲風土記」が扱われている。「出雲風土記」は、記紀(古事記と日本書紀)のどちらに引き付けて理解するかということが論議の分かれ目であるらしい。
国引き神話とは、現在は島根半島になっている4つの島を海のかなたから綱をつけて引っ張ってきたというものだが、平野さんは正統的に日本書紀に引き付けて理解し、三浦さんは古事記にひきつけて理解しようと主張しているようだ。
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40年前の初島根以来、何回か島根に行った。
多くは、教育研究の会合のためである。ここ2年ほどは、出雲駅伝や青桐会など大学の仕事でも多かった。ゆっくり見たいと思った。
台風のさなか、飛行機の欠航が相次ぐ中で飛び立った。ラッキー!と思ったが、飛行機は揺れた。ラッキーじゃなかったかもしれないと少し本気で思った。
2016年08月29日
2016年08月27日
2016年08月26日
2016年08月21日
2016年08月19日
2016年08月18日
「友情」
高校のとき、武者小路実篤の「友情」を読んだ。友達と青臭い議論をしたものだ。
直木孝次郎さんを知ったのは、1965年に出された中央公論社の「日本の歴史」シリーズの『古代国家の成立』の著者としてである。ぼくは大学1年で、向学心にあふれていた?ころだ。ちなみに、大学での日本史の講義(当時は、授業とは言わなかった)は、同じ古代史の井上光貞さんのを受けた。受験参考書の先生だった。
以来、直木さんとはすっかりご無沙汰だったが、今度この『武者小路実篤とその世界』を書いた。驚いたことに97歳である。
この20年間に書き溜めた武者小路についての文章を集めたものである。
冒頭の「武者小路実篤における平和と戦争」は、反戦・平和を主張した「ある青年の夢」(1916年)から始まる。しかし、武者小路は、その1942年に戦争を肯定する「大東亜戦争私観」を書き、そのために戦後一時期公職追放になる。
この「平和主義者から戦争賛美論者への豹変」について、本田秋五が「謎」としていることに対して、「豹変」ではなく、武者小路が1924年に書いた「楠正成」においてすでに転換があったと直木さんは言う。厳しい。
しかし、本の全体は、武者小路への愛惜に満ちている。それは武者小路の熱烈な支持者であった直木さんの父親のおかげで、武者小路は直木さんにとって、小さい時から「おじさん」ともいう存在であったからである。
そういう視角から、「白樺」を弾圧した学習院院長の乃木希典との関係、もちろん志賀直哉との交友、森鴎外や夏目漱石、竹久夢二の登場もあって面白い。
*****************
志賀直哉と武者小路は、柳宗悦のすすめで、1915年ころ我孫子に住むことになる。
志賀直哉には、同じ時期に、題名は思い出せないが、軍人嫌いを主題にした短編があったはずだ。「ある青年の夢」と同じ主題である。考証はできないが、二人は相談してか、少なくとも影響しあって書いたものではないか。
直木さんのこの本によると、のちに志賀が奈良に移住した時も、武者小路は同じ奈良に住んだらしい。二人の友情の深さを思う。
*****************
今日は、職場でひとつの小さな山を越えた。
仕事上の立場やいきさつから友だち関係にひびくような場面もある。
「友だちは友だちだ」と言いきかせつつ、気が晴れない。
直木孝次郎さんを知ったのは、1965年に出された中央公論社の「日本の歴史」シリーズの『古代国家の成立』の著者としてである。ぼくは大学1年で、向学心にあふれていた?ころだ。ちなみに、大学での日本史の講義(当時は、授業とは言わなかった)は、同じ古代史の井上光貞さんのを受けた。受験参考書の先生だった。
以来、直木さんとはすっかりご無沙汰だったが、今度この『武者小路実篤とその世界』を書いた。驚いたことに97歳である。
この20年間に書き溜めた武者小路についての文章を集めたものである。
冒頭の「武者小路実篤における平和と戦争」は、反戦・平和を主張した「ある青年の夢」(1916年)から始まる。しかし、武者小路は、その1942年に戦争を肯定する「大東亜戦争私観」を書き、そのために戦後一時期公職追放になる。
この「平和主義者から戦争賛美論者への豹変」について、本田秋五が「謎」としていることに対して、「豹変」ではなく、武者小路が1924年に書いた「楠正成」においてすでに転換があったと直木さんは言う。厳しい。
しかし、本の全体は、武者小路への愛惜に満ちている。それは武者小路の熱烈な支持者であった直木さんの父親のおかげで、武者小路は直木さんにとって、小さい時から「おじさん」ともいう存在であったからである。
そういう視角から、「白樺」を弾圧した学習院院長の乃木希典との関係、もちろん志賀直哉との交友、森鴎外や夏目漱石、竹久夢二の登場もあって面白い。
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志賀直哉と武者小路は、柳宗悦のすすめで、1915年ころ我孫子に住むことになる。
志賀直哉には、同じ時期に、題名は思い出せないが、軍人嫌いを主題にした短編があったはずだ。「ある青年の夢」と同じ主題である。考証はできないが、二人は相談してか、少なくとも影響しあって書いたものではないか。
直木さんのこの本によると、のちに志賀が奈良に移住した時も、武者小路は同じ奈良に住んだらしい。二人の友情の深さを思う。
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今日は、職場でひとつの小さな山を越えた。
仕事上の立場やいきさつから友だち関係にひびくような場面もある。
「友だちは友だちだ」と言いきかせつつ、気が晴れない。
2016年08月11日
2016年08月08日
山中鹿之助
小学生の頃、少年少女文庫のようなもので、「山中鹿之助」を読んだ。
「我に七難八苦を与え給え」と三日月に祈ったということに、なんでかわからないが感動したりしていた。
昔なじみのTちゃんは、子どものころからチャンバラが好きで、塚原卜伝などの武勇伝を聞かされた。
趣味が高じて、武将の研究が生涯の仕事になり、「もののふ列伝」というブログを書き、ときどき本にまとめてもいる。
去年秋、同窓会であったときも、今は安来市になっている山中鹿之助の月山富田城に行ってきたという話をしていた。ぼくもほとんど同じ時期、近くを通ったという話をした。
松本清張がなぜ鹿之助を書いたのかは知らない。これから読む。
仕事上、試練がつづく。
鹿之助のような思いには到底なれないが、試練には立ち向かうだけである。
「我に七難八苦を与え給え」と三日月に祈ったということに、なんでかわからないが感動したりしていた。
昔なじみのTちゃんは、子どものころからチャンバラが好きで、塚原卜伝などの武勇伝を聞かされた。
趣味が高じて、武将の研究が生涯の仕事になり、「もののふ列伝」というブログを書き、ときどき本にまとめてもいる。
去年秋、同窓会であったときも、今は安来市になっている山中鹿之助の月山富田城に行ってきたという話をしていた。ぼくもほとんど同じ時期、近くを通ったという話をした。
松本清張がなぜ鹿之助を書いたのかは知らない。これから読む。
仕事上、試練がつづく。
鹿之助のような思いには到底なれないが、試練には立ち向かうだけである。
2016年08月01日
高知
31日朝,、松山からの高速バスで高知へ。
こういうルートでの高地入りは初めて。
高知は、四国では一番来ているし、友人も多い。
でも考えてみると数年ぶり。
変わっていることも多かった。
高知駅前に立つ銅像もそのひとつ。
坂本龍馬、中岡慎太郎、武市半平太。
同行のIさんが発見したのだが、名前を揮ごうしたのは大学の卒業生らしい。
その隣には、高校生の「マンガ甲子園」のテント。
アンパンマンのやなせたかしさんが高知の出身なので、地域おこしとしてマンガを使うということらしい。
いたるところにアンパンマン。
最初の写真の緑の列車もアンパンマン列車。
去年の鳥取では、「ゲゲゲの鬼太郎」と「名探偵コナン」に遭遇したのだった。
数年前、学生が卒論で「マンガの地域おこし」をやりたいと言っていたが、ぼくは意味が分からなかった。不明を恥じる。、
「リョウマの休日」もあちこちで見かけた。(それから「高知家(け)」の看板も多い。県民投票で選ばれた料理屋さんらしい。)
写真は、青桐会会場の土佐御苑の玄関口。
会には、10人ちょっとの方が参加された。
地方における大東文化大学の役割や位置について大いに考えさせられた。
逢いたい人も訪ねたいところもあったが、土佐御苑の会議室と駅と空港だけの高知だった。
こういうルートでの高地入りは初めて。
高知は、四国では一番来ているし、友人も多い。
でも考えてみると数年ぶり。
変わっていることも多かった。
高知駅前に立つ銅像もそのひとつ。
坂本龍馬、中岡慎太郎、武市半平太。
同行のIさんが発見したのだが、名前を揮ごうしたのは大学の卒業生らしい。
その隣には、高校生の「マンガ甲子園」のテント。
アンパンマンのやなせたかしさんが高知の出身なので、地域おこしとしてマンガを使うということらしい。
いたるところにアンパンマン。
最初の写真の緑の列車もアンパンマン列車。
去年の鳥取では、「ゲゲゲの鬼太郎」と「名探偵コナン」に遭遇したのだった。
数年前、学生が卒論で「マンガの地域おこし」をやりたいと言っていたが、ぼくは意味が分からなかった。不明を恥じる。、
「リョウマの休日」もあちこちで見かけた。(それから「高知家(け)」の看板も多い。県民投票で選ばれた料理屋さんらしい。)
写真は、青桐会会場の土佐御苑の玄関口。
会には、10人ちょっとの方が参加された。
地方における大東文化大学の役割や位置について大いに考えさせられた。
逢いたい人も訪ねたいところもあったが、土佐御苑の会議室と駅と空港だけの高知だった。