2013年09月
2013年09月30日
野口先生を偲ぶ会
29日(日)、長野の「ホテルしなの路」で野口清人先生を偲ぶ会。
(前日とホテルは同じだが、この日は2階)
約80人が参加。懐かしい顔、顔。
先生のお人柄そのもののいい会だった。
もっとも先生がいないということ、こういう会を開くということ自体が痛恨事なのだが。
「野口先生は、言葉の本当の意味で知的な人でした。
追悼文集の田中夏子さんの言葉を借りれば、「知に生きる」、知に生きた人でした。
先生の知的な活動の本質はやはり、ジャーナリストとしてのそれでした。
舌を巻くような、足で稼ぐ調査や取材で人間の生きた情報をもたらしてくれました。
どこで探してきたかと驚く資料を発掘されました。
また、先生はたぐいまれな表現者でした。
文章や専門の映像はもちろん、たとえば集会やイヴェントの企画、構成、脚本、演出で多くの者を感動させました。
先生は、生涯を通して、人々にとって、地域にとって切実な、大切な諸問題に、激しい情熱を持って取り組まされました。
慈愛に満ちたまなざし、やさしさにあふれた笑みに私たちはどれだけ励まされたかわかりません。
先生はお酒をこよなく愛されました。
「空蝉」のカウンターの隅で、本を読みながら静かに飲んでおられた姿を忘れることはできません。
このさかずきを先生にささげます。
そして、先生の志を継いで、私たちは元気にしっかりと生きていくことを誓って献杯をします。
献杯。」
新聞部OB会
28日(土)、長野市の「ホテルしなの路」で開かれた長野高校新聞部65周年記念の集まりに出席した。
昨年4月、長野・望月町の大沢酒造での「信濃のかたりべ」の新酒発表会に出ていたら、新聞部の大先輩である菅原さんが見えて、「おめえ、新聞部だったせうじゃねえか」とご挨拶があった。
菅原さんは、新聞(当時は、「長野北高新聞」)を1948年に創刊した人で、自分たちで編集・発行するのは無論のこと、費用も自弁、広告料と有料販売で賄ったそうだ。(新入部員の仕事が広告取りから始まるのはぼくらのときも今も同じである。)
その新聞は現在617号、おそらく全国の高校新聞で発行号数は最も多い。
大東文化大学は、毎年朝日新聞の協賛、文部科学省後援で「全国高校新聞コンクール」を行っているが、「長高新聞」は受賞の常連で最高賞の文部大臣賞も受賞している。(あいにくぼくが授賞式に出るようになってからは応募がない。)
今年の5月、ゼミの学生と望月町の伊藤盛ちゃんの田圃で田植えをし、バーベキューをしていたら、また菅原さんが、今度はOB会長の宮下さんを伴って訪ねてこられた。「秋に、新聞部の65周年記念の会をやるから、なんか話してくれや」と。こんなところまでわざわざ来られて断ることなんかできやしない。それで今回の会になった。
会は、現役の学生も含めて60人ほどが参加。全国からそうそうたるメンバーが駆け付けてこられた。
初めての参加のぼくだが、その後の延長の会も含め、多くの方と知り合った。
うれしかったのは、途中千葉(旧姓高橋)弘子さんが訪ねてくださったこと。
千葉さんは、わが大学の卒業生、女子スキー(距離)の選手で札幌オリンピック(3種目)にも出た。長野の北野建設に就職、長野オリンピックのときには選手村の副村長も務めた。
千葉さんは思っていたよりずっと小さくて、どこにそんな力があるかと思うほど。退社後も社会的に活躍され、長野県の教育委員もやり、今も子育て事業の関係で仕事をされている。とても素敵な人だった。
昨年4月、長野・望月町の大沢酒造での「信濃のかたりべ」の新酒発表会に出ていたら、新聞部の大先輩である菅原さんが見えて、「おめえ、新聞部だったせうじゃねえか」とご挨拶があった。
菅原さんは、新聞(当時は、「長野北高新聞」)を1948年に創刊した人で、自分たちで編集・発行するのは無論のこと、費用も自弁、広告料と有料販売で賄ったそうだ。(新入部員の仕事が広告取りから始まるのはぼくらのときも今も同じである。)
その新聞は現在617号、おそらく全国の高校新聞で発行号数は最も多い。
大東文化大学は、毎年朝日新聞の協賛、文部科学省後援で「全国高校新聞コンクール」を行っているが、「長高新聞」は受賞の常連で最高賞の文部大臣賞も受賞している。(あいにくぼくが授賞式に出るようになってからは応募がない。)
今年の5月、ゼミの学生と望月町の伊藤盛ちゃんの田圃で田植えをし、バーベキューをしていたら、また菅原さんが、今度はOB会長の宮下さんを伴って訪ねてこられた。「秋に、新聞部の65周年記念の会をやるから、なんか話してくれや」と。こんなところまでわざわざ来られて断ることなんかできやしない。それで今回の会になった。
会は、現役の学生も含めて60人ほどが参加。全国からそうそうたるメンバーが駆け付けてこられた。
初めての参加のぼくだが、その後の延長の会も含め、多くの方と知り合った。
うれしかったのは、途中千葉(旧姓高橋)弘子さんが訪ねてくださったこと。
千葉さんは、わが大学の卒業生、女子スキー(距離)の選手で札幌オリンピック(3種目)にも出た。長野の北野建設に就職、長野オリンピックのときには選手村の副村長も務めた。
千葉さんは思っていたよりずっと小さくて、どこにそんな力があるかと思うほど。退社後も社会的に活躍され、長野県の教育委員もやり、今も子育て事業の関係で仕事をされている。とても素敵な人だった。
2013年09月26日
2013年09月25日
大学パン
今日は東松山キャンパスで諸会議。
その合間、大学の学生と山崎パンさんが共同で企画開発したパンの発表会・試食会。
これは、国際関係学部の「大豆のアジア学」を取っている女子学生たちが、きな粉を使ったパンの開発に携わったもの。
「ロールちゃん」と「豆乳きな粉クリーム&豆乳入りホイップクリームパン(渋皮マロンクリーム)」という長い名前のパン。全国で数大学目だそうだが、2つ同時開発は初めてだそうだ。
10月1日から関東エリアで3000個ずつ発売される。
その次には、東松山市も加わって、「焼き鳥ランチパン」も企画されているそうだ。
夜は、交換留学生との懇親会。中国、台湾、カナダ、アメリカ、タイ、フィンランドなど8カ国20数人の留学生が集まった。
同じくらいの数の日本人学生、日本語教師、学生たちの寮のオーナーさん、地域で英語学習などで交流している方々、なども参加。
流暢な日本語を話す学生もいて驚いた。
大学には、彼らを含めて500人の留学生がいる。
2013年09月21日
90周年
9月20日は、大学の90周年。
記念式典とパーティが開催された。
記念グッズもいろいろつくられたが、ネクタイは2種類。さっそく付けて式典等に臨んだ。
この日は90円カレーも発売された。板橋キャンパスは3つの食堂がそれぞれつくり、呼び込み合戦も行われた。3つとの食べたという学生や職員もいる。
オリジナルのkitkutもつくられ、こちらは2個90円で3回に分けて販売される。
新聞各紙で広告も打った。読売は一面カラー刷りで全国版、その他の5大紙は5段抜き。
ラジオのニッポン放送では、広告でぼくのインタビューも3分間流れた(はずだ)。時間がお昼の「あまちゃん」とダブり、少し食われた。
それでも聴いてくれた人もいるようだ。午後会った保護者の方や、「巻雲」の記事にコメントを寄せていただいた卒業生?もいる。
記念式典とパーティが開催された。
記念グッズもいろいろつくられたが、ネクタイは2種類。さっそく付けて式典等に臨んだ。
この日は90円カレーも発売された。板橋キャンパスは3つの食堂がそれぞれつくり、呼び込み合戦も行われた。3つとの食べたという学生や職員もいる。
オリジナルのkitkutもつくられ、こちらは2個90円で3回に分けて販売される。
新聞各紙で広告も打った。読売は一面カラー刷りで全国版、その他の5大紙は5段抜き。
ラジオのニッポン放送では、広告でぼくのインタビューも3分間流れた(はずだ)。時間がお昼の「あまちゃん」とダブり、少し食われた。
それでも聴いてくれた人もいるようだ。午後会った保護者の方や、「巻雲」の記事にコメントを寄せていただいた卒業生?もいる。
2013年09月19日
沖縄調査
沖縄の「地域と教育」を考える土台として、戦争と平和の問題はいつも土台にある。大事なところはかならず回る。
これらの場所は、ぼくは毎年のように行くことになるので、なんとなくマンネリの気分があるが、行くと毎年新しい発見がある。
アブチラガマ。ここは5,6回目だが、ガイドさんの説明が詳しくなり、迫力もあって、体に震えが来た。本も2冊買った。
平和祈念資料館。ここは10回以上になるが、行くとあらためて厳粛な気持ちになる。今年は、ミクロネシアの小さな島々で死んだたくさんの沖縄の人たちのことを知った。
佐喜間美術館。
丸木位里、俊夫妻の「沖縄戦の図」があるが、学生たちは沖縄に来る前に、東松山市唐子にある丸木美術館で「原爆の図」を見てきている。
久しぶりにお会いする佐喜間夫人が熱弁をふるってくれた。
これ以外は、学生が班ごとに調査対象を探し、アポを取るなど周到な準備を積んで、行動する。同時並行なので、ぼくは選んで参加する。
正直、ぼくの準備が一番整わなかったかもしれない。
それでも劇的な出会いに恵まれた。犬も歩けば棒に当たる。
すでに書いたように、今年は「引きこもり」をテーマにしたので、担当のメイメイさんが現地との交渉にあたった。そうしたら、NPOのTさんが空港まで出迎えてくださった。こんなのは初めて。
最初の那覇では、1晩目、ライブの「トゥバラーマ」で、大学のSゼミと合同の食事。圧倒的な音楽に学生たちはすっかり沖縄の気分に酔いしれた。
3晩目。「引きこもり」に取り組んでおられるHさんが、御家族や友人を総動員して、名護の海岸でバーベキューを催してくださった。Hさんもわざわざ那覇から駆け付けた。沖縄には昔から「モーアシビ」という習慣がある。三線こそなけれ、十分に沖縄を味わった。
辺野古は最終日に訪ねた。
毎年会う東恩納琢磨さんは議会中。テントに行くと、いつも説明してくれる安次富さんは先着のグループに話している。
座っている年配の人に説明を請うて、名刺を交換した。名前を見て驚いた。私大で教員をしている大学院時代の同期生だった(研究室は違うが)。おそらく40年ぶりくらいの再会だった。「あんまり風貌が変わっているのでわからなかったよ」というが、こちらのセリフでもある。
これらの場所は、ぼくは毎年のように行くことになるので、なんとなくマンネリの気分があるが、行くと毎年新しい発見がある。
アブチラガマ。ここは5,6回目だが、ガイドさんの説明が詳しくなり、迫力もあって、体に震えが来た。本も2冊買った。
平和祈念資料館。ここは10回以上になるが、行くとあらためて厳粛な気持ちになる。今年は、ミクロネシアの小さな島々で死んだたくさんの沖縄の人たちのことを知った。
佐喜間美術館。
丸木位里、俊夫妻の「沖縄戦の図」があるが、学生たちは沖縄に来る前に、東松山市唐子にある丸木美術館で「原爆の図」を見てきている。
久しぶりにお会いする佐喜間夫人が熱弁をふるってくれた。
これ以外は、学生が班ごとに調査対象を探し、アポを取るなど周到な準備を積んで、行動する。同時並行なので、ぼくは選んで参加する。
正直、ぼくの準備が一番整わなかったかもしれない。
それでも劇的な出会いに恵まれた。犬も歩けば棒に当たる。
すでに書いたように、今年は「引きこもり」をテーマにしたので、担当のメイメイさんが現地との交渉にあたった。そうしたら、NPOのTさんが空港まで出迎えてくださった。こんなのは初めて。
最初の那覇では、1晩目、ライブの「トゥバラーマ」で、大学のSゼミと合同の食事。圧倒的な音楽に学生たちはすっかり沖縄の気分に酔いしれた。
3晩目。「引きこもり」に取り組んでおられるHさんが、御家族や友人を総動員して、名護の海岸でバーベキューを催してくださった。Hさんもわざわざ那覇から駆け付けた。沖縄には昔から「モーアシビ」という習慣がある。三線こそなけれ、十分に沖縄を味わった。
辺野古は最終日に訪ねた。
毎年会う東恩納琢磨さんは議会中。テントに行くと、いつも説明してくれる安次富さんは先着のグループに話している。
座っている年配の人に説明を請うて、名刺を交換した。名前を見て驚いた。私大で教員をしている大学院時代の同期生だった(研究室は違うが)。おそらく40年ぶりくらいの再会だった。「あんまり風貌が変わっているのでわからなかったよ」というが、こちらのセリフでもある。
天の園
友人が『天の園』という作品を紹介してくれた。ぼくはこれまで、まったく知らなかったが、内木村治さんという作家の作品であり、『次郎物語』、『路傍の石』に並ぶ日本の三大児童文学の一つだという評価もあるようだ。
6部まであって、まだ3部までしか読んでいないが、ぼくはとても好きだ。
時代は明治末だが、当時の人々の生活や子どもの生活が目に浮かぶように描かれている。
豊かな美しい自然、つつましい生活。ぼくの子ども時代は、時間的にはこの作品の時代と現代のちょうど中間だが、感覚としてはこの作品の世界に近い。
親(母親)への全面的依存と抵抗、友達への信頼と懐疑、子どもの心の世界が率直にリアルに描かれ、心理小説とも言われる『次郎物語』のようになつかしい。
貧乏とのたたかいや社会の問題は、『路傍の石』にも通じる。
広い意味の教養小説(成長小説)だが、人生にとって子どもが学ぶべきことが小説にはふんだんに書かれている。説教や倫理を説くのではなく、自然に納得できる。
ところでこの小説の舞台は、現在の東松山市唐子、当時の唐子村である。そのころは、唐子村、高坂村、松山町は独立した自治体であり、とくに子どもにとっては松山町は、世界の外の遠い地域だった。
当時の唐子村の人が東京に行くには、徒歩か、まだ珍しい自転車か人力車で松山町に出て、長い時間待って馬車に乗って熊谷町に出、そこから鉄道に乗って東京へ行く長い長い旅だったようだ。
方言も立派にあり、地域の伝統的な文化もあった。
台風のなか、東松山校舎に行った帰り、唐子中央公園に行ってみた。
そこには、「天の園」の石碑があった。
小説の中で、母親のかつらが、5人の子どもを抱えて大阪から帰って、「飯をたくさん食うだろう」と言われたときに言った、「景色で腹がいっぱいになるような子どもに育てます」と言ったその言葉が刻まれている。
「天の園」という喫茶店もあると聞いたが、見つけることはできなかった。
6部まであって、まだ3部までしか読んでいないが、ぼくはとても好きだ。
時代は明治末だが、当時の人々の生活や子どもの生活が目に浮かぶように描かれている。
豊かな美しい自然、つつましい生活。ぼくの子ども時代は、時間的にはこの作品の時代と現代のちょうど中間だが、感覚としてはこの作品の世界に近い。
親(母親)への全面的依存と抵抗、友達への信頼と懐疑、子どもの心の世界が率直にリアルに描かれ、心理小説とも言われる『次郎物語』のようになつかしい。
貧乏とのたたかいや社会の問題は、『路傍の石』にも通じる。
広い意味の教養小説(成長小説)だが、人生にとって子どもが学ぶべきことが小説にはふんだんに書かれている。説教や倫理を説くのではなく、自然に納得できる。
ところでこの小説の舞台は、現在の東松山市唐子、当時の唐子村である。そのころは、唐子村、高坂村、松山町は独立した自治体であり、とくに子どもにとっては松山町は、世界の外の遠い地域だった。
当時の唐子村の人が東京に行くには、徒歩か、まだ珍しい自転車か人力車で松山町に出て、長い時間待って馬車に乗って熊谷町に出、そこから鉄道に乗って東京へ行く長い長い旅だったようだ。
方言も立派にあり、地域の伝統的な文化もあった。
台風のなか、東松山校舎に行った帰り、唐子中央公園に行ってみた。
そこには、「天の園」の石碑があった。
小説の中で、母親のかつらが、5人の子どもを抱えて大阪から帰って、「飯をたくさん食うだろう」と言われたときに言った、「景色で腹がいっぱいになるような子どもに育てます」と言ったその言葉が刻まれている。
「天の園」という喫茶店もあると聞いたが、見つけることはできなかった。
2013年09月17日
2013年09月12日
2013年09月07日
2013年09月05日
記録映画
昨日の朝日新聞35面は、ほぼ一面を使って福島県の松浦港を拠点とする相馬双葉漁協について報じていた。
港は、震災と原発事故までは、毎年後継者が誕生するなど活気あふれるところだった。事故後は様相が一変した。それでも、魚は売れなくとも魚を捕りたい、孫のために船を新設した、などの漁師の気持ちを笑うことはできない。9月から試験操業を拡大する計画だったが、東京電力福島第一原発の放射能汚染水漏れが明るみに出て、計画の延期を余儀なくされた。
森康行監督が、今度の記録映画で撮ろうとしていることのひとつが、相双漁協の若者たちの姿である。先日の第1回の下見では、若者たちの笑顔が印象に残ったという。
どういう映画を作るかという質問に、森さんは「わからない」と答える。カメラを回してみて感じることに従って次を考えるのだという。「自分の感性こそが頼り」というのだ。記録映画というのは、綿密な取材に基づいてプロットをつくり、事実を記録していくのだと思っていたが、どうも違うらしい。その点では、フィクションのドラマ以上に自由で創造的であるらしい。
港は、震災と原発事故までは、毎年後継者が誕生するなど活気あふれるところだった。事故後は様相が一変した。それでも、魚は売れなくとも魚を捕りたい、孫のために船を新設した、などの漁師の気持ちを笑うことはできない。9月から試験操業を拡大する計画だったが、東京電力福島第一原発の放射能汚染水漏れが明るみに出て、計画の延期を余儀なくされた。
森康行監督が、今度の記録映画で撮ろうとしていることのひとつが、相双漁協の若者たちの姿である。先日の第1回の下見では、若者たちの笑顔が印象に残ったという。
どういう映画を作るかという質問に、森さんは「わからない」と答える。カメラを回してみて感じることに従って次を考えるのだという。「自分の感性こそが頼り」というのだ。記録映画というのは、綿密な取材に基づいてプロットをつくり、事実を記録していくのだと思っていたが、どうも違うらしい。その点では、フィクションのドラマ以上に自由で創造的であるらしい。