2011年01月

2011年01月30日

土曜日

土曜日1土曜日は、平日と違って決済や会議が少ない。

この日は朝から全国統一入試の説明会。北海道から沖縄まで出かけて入試をする。かつては地方入試といっていた。心配された志願者だが、まずまずの状況に安堵。



土曜日2昼頃、構内を歩いていると、学生たちがプラカードを持って案内をしている。聞くと、ある学科の卒論発表会とのこと。
階段教室にすべての学年が集まり、発表者の4年生はリクルートスーツに身を固めて晴れがましい。ぼくも突然の挨拶。
最初の発表を聞いたが、なかなかのできばえと思われた。
こういう場があるということはいい。

1時過ぎから、大学の学長賞の授与式。今年の日展の第5科「書」で、特選10人のなかのお二人が大学の卒業生だった。その方たちをお招きしての授賞式。
ついで、近所の中華料理店で食事会。書道の世界についての興味深い話を聞かせていただいた。
記事と写真は大学のHPで。

終了後、浮間の孫たちの幼稚園入学を祝う。エビカニ踊りをみせてもらった。

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2011年01月29日

こはらの蕎麦・五人娘

小原・蕎麦普通の日は、朝9時くらいから夕方まで、仕事部屋で来訪者の応対、決済の捺印、打ち合わせ、資料整理などに追われており、近くの部屋の会議に出かけていく。

閉じこもっていてはいけないので、空いた時間は学内を歩いて、いろいろな人と話す。だから、昼食は最近、弁当をやめて(ダイエットの都合もあるのだが)、生協食堂へ出かけ、出会った人といっしょに食事をするようにしている。

しかし、この日の昼食は、Hさんと学外へ足を延ばして「こはら」さんで蕎麦を食べた。いい天気で生き返る。鳥南のそばもおいしい。職場体験学習中の近くの女子中学生とも言葉を交わした。

五人娘夜、千葉の30年前の卒業生が送ってくれた「五人娘」をいただいた。

前にも何度か書いたことがあるが、寺田屋本家がつくるこのお酒は、無農薬米を使い、もちろん醸造用アルコールは無添加、生もとづくり、お米もあまり削らないので糠の匂いがする。稀になった昔のお酒だ。

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Oさん、逝去

職場のOさんが急逝した。まだ40代の若さだった。
昨日、故郷のご両親が板橋キャンパスにご挨拶に見えた。
息子の働いていた場所を見たいとおっしゃり、東松山キャンパスにも回られた。
お母さんは、花が飾られ、チョコレートなどが供えられた机の前の椅子に座り、パソコンに見入りながら、「ごくろうさんだったねえ」と泣き崩れておられた。かつての上司だったIさんも号泣していた。
職場で一番の映画通であり、残された品々の中には故郷を題材にしたDVDもあった。
合掌

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Iさん、退職祝い

 先日、F市の社会教育職員であるIさんの退職祝いがあった。
 Iさんは、大学を出てからF市の公民館で働き、地域住民の学習活動や文化活動を支援してきた。ぼくが関わるようになった35年ほど前にはすでに、Iさんが行った子ども対象の「南畑探検」の事業はすでに雑誌などでも紹介され、全国的にも知られていた。
 その後、M公民館で手がけた「地域白書」づくりも社会教育として大きな事業で、ぼくも研究者の立場から参加させてもらったほか、さまざまな仕事をともにさせてもらった。
 なによりも、15年間ほど続いた地域のミニコミ紙「よんどけ」の編集・発行では、中心の一人だった。また、スキー、ギター、演劇鑑賞などの仲間でもあった。
 おおぜいの社会教育職員や市民が集まった。


伊藤さん2伊藤さん1伊藤さん3







 その席で、ぼくも花の贈り物をいただいてしまった。
また、ヌマッちゃんからは、一対の大きなフクロウの置物をもらった。これは、宮城のコケシの工人さんがつくってくれたもので、「何があっても立ち上がれ」という起きあがりこぼしである。絵は、娘のアカネちゃんが描いてくれたという。ありがたい。

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2011年01月25日

お誂え

ぼくがまだ小学生のころ、母親は家事や農作業のかたわら、和裁の内職をしていた。
松代の呉服屋さん(名前は忘れた)が、まだ自動車がめずらしかった時代で自転車で反物を届けに来て、母親が仕立てあげると次の反物を持って、取りに来る。
母親は、「これは権堂の芸者さんの着物」などと教えてくれて、お客さんからの評判がいいのだと自慢していた。仕立てた着物をしまう紙の包みには「お誂え」という文字があって、それが「おあつらえ」と読むのだとわかったのはずっと後のことだ。
母親が人に使われる姿を見るのはいやだったが、それでぼくを育ててくれているのだということは小さい僕にもわかった。

昨日、デパートにモーニングを誂えに行った。
モーニングと燕尾服とタキシードの区別を初めて知った。
屈辱だったのは、採寸で胴周りを測ってもらったとき。胴周りを訊かれ、普段の寸法より少し多めに言ったのに、実際に測ると、もう少しあったほうがいいですね、と申し訳なさそうに言われた。

今に見ろ きっと見返す やせてやる

和楽1和楽2和楽3






夜、つれあいと息子と和楽さんへ行った。月1回くらいの恒例の食事、家族全員が和楽さんが好きなのだ。蕎麦屋さんだが、いい酒をそろえ、料理もおいしい。いつものことで、メニューの酒は一通り以上飲み、黒板の料理から始まり定番を経て、鴨の挽肉炒り卵とじに至るまで食べた。

やせてやる これ食べてから やせてやる

今日は、職場で、今回の大学の不祥事について学生に説明会を行った。これについてはいずれHPで書きたい。



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2011年01月23日

線香昨日、自宅の仕事部屋の掃除をした。大量の本とゴミを整理した。300キロは超えると思う。残った本の重さが何トンになるか、考えるだけでおそろしい。

部屋では、いつも線香をたいている。信仰のためではない。気持ちが落ち着くからだ。気分によって、どれを選ぶかを決めるが、一番多い煙はやはりタバコか。


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2011年01月21日

日本語

日本語1日本語2左。「ロヂャース」の「ヂ」は、まあいいとして、「見れます」は「ら」抜き表現で正しくない。

右。「ぢ」は、ほんとうは「じ」だろうが、まあ「正しい」と思う。

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2011年01月20日

宝探し

宝探し昨日、仕事の後、市ヶ谷のアルカディアで会合があって出かけた。
以前は毎週のように通っていた市ヶ谷だが、ほんとうに久しぶり。居酒屋に行けば誰かに会えるかなと思い、行きつけの店を探したが誰もいなかった。

吉行あぐりさんの美容室があったビルの前の通りで、大勢の人が何かを探していた。
これは落としたものが1年玉ではなく、500円玉に違いない。
あるいは、だれかがいたずらで捜し物の振りをして、大勢を巻き込んだのだろうか。

朝日1

朝日2
今朝、定例の病院に行き、家で休日。
ここのところ日曜日も仕事だったから、休みをもらった。

朝日がまぶしい。


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2011年01月19日

富士山

富士山写真を撮る時間がない、チャンスもない。
昨日朝、空には一点の雲もなかった。富士山が大きくくっきりと見えた。
東松山に向かう高速のクルマの中で、あわててカメラを取り出し、シャッターを切った。一瞬で防音壁に遮られた。

それに比べてNさんの写真はいい。以前は、ときどき同じ雲や空の写真もあった。

「健脚写真」。
なかに、ゆきぐもの写真がある。

センター試験のさなか、ぼくも見た。北の方からむくむくと張り出して、雪がさらさらと散った。ゆきぐもはほんとうに白いのだ。雨雲は真っ黒だけれど。

Nさんの「夢」は、迫ってくる詩だ。

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2011年01月17日

自治と自由

昔、ぼくがまだ学生だったころ、大学の「教授会自治」は批判の対象だった。特権的な権利を持ち、閉ざされた「白い巨塔」だったからだ。職員や学生の参加でこそ自治が守られると、学長選挙などでも職員や学生も参加するようになった。

しかし、その後大学管理法ができ、「開かれた大学」が言われ、国家に管理され、「市場」原理、競争原理に開かれた大学、という傾向が強くなった。そういう状況の中で、ぼく自身もその内部の人間となり、大学の自治と自由を守るため「教授会自治」論に頼らざるを得ないことになった。いわば戦線を縮小、後退させてきた。

そういうなかであらためて「教授会自治」が問われている。強力な権力と圧力の中で大学の自治(そして学問の自由)を実現するためには、それらに負けない強い倫理性と自己規律、民主主義を持たなければならない。

「開かれた学校づくり」は、最近のぼくの研究テーマだった。それを大学のこととして創造的に発展させなければならないと自覚させられている。

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新年酒

センター入学試験で2日間泊まり込んだので、ちょっとした出張だった。みなさん、お疲れ様でした。ありがとうございました。

このブログ、タイトル負けで、お酒のことは書くゆとりがなかった。

新年酒2新年酒3 新年酒4 新年酒5新年酒6 新年酒7新年酒8新年酒9 新年酒91


各地の友人たちが、年末年始に贈ってくれたお酒群。
めずらしいお酒が多く、ほんとうはいちいち紹介しなくてはならないが、とりあえず写真だけアップしておく。そのうち、講釈する。

ライブドアがフォーマットを変えたのか、写真がうまく並べられない。

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2011年01月16日

センター入試

朝焼け
昨日からセンター試験。一昨日夜から泊まり込みで仕事をしている。こういう仕事は神経を使うが、これまでのところ、幸い大きな事故やトラブルはなく無事。

写真は、早朝東松山キャンパスで見た朝焼け。




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2011年01月14日

宮崎駿さん

今日は、職場で、プロのカメラマンにたくさん写真を撮られた。
あらためてカメラマンというのはこういうものかと思った。撮る対象との関係づくりがうまい。いろいろなことを話しかけ、質問してくる。「趣味は何ですか」というから「写真!」と答えた。油断して話が弾んだ。篠山紀信もかくばかりかと思った。

それとは関係なく、気にしていたことが二つ。
最近写真を撮られるときは、顔のシミを隠すために、近くの部屋の女性に相談してファンデーションなるものを借りていた。今日は連れ合いのを借りて出かけたが、プロは、そんなものは修正でどうでもなると言う。

もうひとつは、来年までには痩せようと決意した。

家に帰って、連れあいに話すと、ついでに顔も変えてもらったら、と言っていた。

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仕事の合間に、明日に提出期限の迫った修士論文の指導をしたり、提出された卒論を読んでいる。いままで、メールや電話で修論指導をしていたところ。

今日読んだ卒論のひとつが「宮崎駿と教育」というもの。ぼくは副査なのだが、最後の「謝辞」を読んで驚いた。

「…、実は、私がこの学科に入学希望を出した最大の理由は○○先生(ぼく)がいたから、なのだ。浪人中に、先生の著書『教育について』を読み、私は強く影響を受けたのだ。この著書の中で、先生は宮崎と対談をしている。先生は、宮崎が教育に対して、どのような価値観を抱いているか、をあざやかに引き出しているのだ。正直、『教育について』ほど、宮崎の教育観を浮き彫りにしている書物は、まだこの世の中に出回っていないと思う。ほんとうに優れた書物なのだ。……」

お世辞だが、ほめられるとうれしいものだ。

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2011年01月12日

匂い袋

匂い袋ご近所の畑仲間のKさんが、小物入れと匂い袋をつくってくれた。小物入れには、データ通信カードやUSBメモリーを入れ、匂い袋はペンケースに入れている。ふとした折りに香りに触れる。

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2011年01月11日

「カタクリの花」

カタクリ今度、劇団銅鑼が「カタクリの花」の舞台をかける。応援している。

それは、かつて老人医療費無料化、乳幼児死亡率ゼロを実現して全国の注目を浴びた岩手県旧沢内村の現在を描くものだが、当時の深沢村長を小説のかたちで書いたものが及川和男さんの本『村長ありき』である。

村から出てさまざまな職業に就いてきた深沢さんが村に戻ったのは、1954年、50才近くになってからだった。その後、教育長を経て村長になるのだが、深沢さんが重視したのは、社会教育だった。「草の根からの住民の自治の力」をつくり出すことを最も大切にしたからである。
わが意を得たり、である。



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2011年01月10日

冬の小鳥

冬の小鳥昨日、新宿武蔵野館のモーニングショウで「冬の小鳥」を観た。岩波ホールでは観られなかった。

季刊雑誌で担当している映画評の連載記事を書くため。前号は、取り込み中で、休載したので今度は休むわけにはいかなかった。今後のことはともかくとして。
何と、映画を観たのは3,4ヶ月ぶり、ありえない。

孤児院に入れられた少女の物語。親に捨てられたという現実を受け入れることができないせつなさ、それは寮母さんや先生たちのどんな善意によってもあがなわれることはない。おまけに友だちにも裏切られる。それらを乗り越えて、少女はけなげにたくましく生きていく。

映画としては、主役ののキム・セロンをはじめとする少女たちの演技、ていねいな描写、いずれもすばらしい。でも映画評の文章にするのはむずかしい。

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2011年01月09日

現代書道20人展

20人展昨日、上野・松坂屋で開催されている現代書道20人展に行った。毎年案内をいただいていたのだが、行くのは初めてである。ぼくは作品を見ても、力強い、とか、品がある、くらいの鑑賞力しかなく、漢字も、かなさえも解読不能だし、できばえとか技量とかはまったく判定できないのだけれど、まあ楽しんだ。

20人のうち、4人は新井光風先生はじめ大学の関係者である。先生には以前、小品だが、展覧会に出品した作品を目録つきで頂戴しており、我が家の宝として部屋に飾ってある。

幹事会午後は、青年劇場全国後援会の幹事会。出席は少なかったが、演劇や鑑賞運動の現状など勉強になった。
新宿2丁目の中華料理店で、人数としては圧倒的に多い劇団員の方たちと新年会。

ここ2,3日、風邪気味。たいしたことはないのだけれど、早く直さなければ。

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2011年01月08日

七草

クロガネモチウメモドキナンテン







庭木の実。クロガネモチ、ウメモドキ、ナンテン。

ヤブコウジセンリョウマンリョウ







十両(ヤブコウジ)、千両、万両。

昨日の朝は、七草がゆとしじみ汁を食べて内蔵休めをしたが、夜にはまた後戻り。

職場の近所に住むHさんが、昔の仲間で集まろうと自宅に呼んでくれた。
昔の仲間というのは、ぼくがまだ大学院学生のころ講師として通っていた東京郊外の青年学級生の人たち。

かれらの多くは20歳前後で、働いていたり、大学生だったりした。
昨日集まったのは4人だったが、いずれも今年還暦で、教師や会社を定年退職するのだという。ぼくと4つしか違わなかったんだ、と驚いた。

Hさんは、その後、中小企業家同友会の職員になり、「若者の教育」や「地域づくり」に関連してぼくの研究のフィールドを開いてくれた。いっしょにつくった本もある。
そのHさんが、ぼくの職場の近くに越してきたこともうれしい偶然だった。

最後はI君のギター、H君のピアノで、昔のうたごえ喫茶になった。

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内野渉さん、逝く

夕暮れ1夕暮れ2夕暮れ3







内野渉さんが亡くなった。
20年ほど前に鶴ヶ島市で社会教育職員の首長部局への大量の異動が行われた。そのなかには、学校の教師と同様、本来専門職である社会教育主事も含まれていた。(ぼくのゼミの卒業生もいた。)
そのことを不当として、4人の職員が提訴をした。彼はその一人だった。ぼくは、弁護士とともに、原告代理として支援した。

「不正義に立ち向かった人生に学ぶ」と弔電を打った。
47歳。あまりに早すぎる別れだった。
合掌

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2011年01月06日

竹田先生最終講義

新年の花写真は仕事部屋に飾ってもらった新年の花。

ぼくは、論文を書いているときは夢の中でも書いている。書いていて詰まると苦しくなって起きてしまう。たまに順調に書けて、気持ちよくなって熟睡すると、起きて真っ白な原稿(今はワープロだが)を見て青くなり、がっかりする。

今、行政的な仕事をしていても同じである。昨日(今朝)も寝ようと意志はするのだが、つぎからつぎと考えなくてはならないことが頭をよぎり、12時過ぎにふとんに入ったのに3時にはふとんを出てしまった。今から思えば激動の、去年最後の1週間も同じだった。

竹田先生今日は午前中板橋で仕事をして、午後、東松山校舎行われた竹田宏教授の最終講義に出た。

竹田先生は、今はぼくとは別の学部におられるが、30年以上前のぼくが若いときは同じ学科におられた。6才年長でもあり、懇親会の時などぼくを「君」なしで呼んで、なにかと目をかけていただいた。お世話になった。専門が違うので、そういう話はしたことがないが、学科や学部の会議などでは、自由とヒューマニズム(先生の専門の言葉で言えば、フマニスム)にあふれる発言をされた。伝統的な教養の最後の残り香を持っておられたと言ってもいいかもしれない。大学にとって貴重な方だった。

皮肉なことだが、最後の講義で初めて、先生の専門に関わる話を聞くことになった。
「ラシーヌ『フェードル』における<愛>の概念について」が今日の演題だった。
パッション(情念)は、「受動」と同義であり、さまざまな抑圧、閉鎖のなかで生まれる感情であることを緻密に語られた。「愛」もまた同じである、と。

講義の後、新年の挨拶に事務の職場を回った。昨日、ぼくが仕事始めでした話を、ぼくは思いを十分伝えきれない自己評価をしていたのだが、遠隔映像で見たという何人かの人が「心に突き刺さった」と正面から受け止めていてくれたのには感動した。

親しい同僚のMuさんに会った。
会った途端、「昨日の小銭の総額を当てましょうか」という。
Muさんは、画面から1円玉、5円玉、10円玉の比率を考え、重量を勘案して計算したのだという。総額は20万円台なのだが、1万円の誤差がなかったのには驚いた。そういうことに、遊び心を発揮するMuさんは大好きだ。

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2011年01月05日

仕事始め

水仙2011例年より2日早く、今日から仕事始め。

いきなり会議がつづく。去年から残された難しい問題で、途中血圧が上がるのが自分でもわかった。そういうときは、そっと深呼吸する。

Hちゃんが今年も福井の水仙を贈ってくれた。

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2011年01月04日

小銭

小銭正月早々お金の話で失礼。

ぼくは小銭入れを持たず、ズボンのポケットに入れているので、家に帰って着替えるときに、1円玉と5円玉はタンスの上の瓶に入れておく。(女性はでかい財布に平気で1円玉も入れておいて、買い物の時に使うらしい。)
500円玉は、やはりタンスの上にある、いっぱいになると30万円になるという500円玉貯金箱(缶)に入れる。

だいぶ溜まったので、郵便局に貯金することにした。(郵便局は貯金のときしか数えてくれない。銀行で両替すると有料になる)集めてみると、重さにして9.7キロあった。ついでにほぼいっぱいになった500円玉(こちらは、3.1キロ、しめて12.8キロ)も持っていった。

恥ずかしかったが、機械でも数えるのに、45分以上かかった。郵便局の人にはほんとうに申し訳なかった。金額はクイズ。ちなみに「30万円貯金箱」は、到底それには届かずにがっかりした。

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正月

今年の三が日は2日から長男家族が来て、子(孫)守をしながら、年賀状の返事を書いたり、テレビのマラソンは少しだけ見たり(6区の山くだりは、大学の高関君が走ったのでしっかり見たが、横幕や幟も建っていてうれしかった)、修士論文の草稿に手を入れたりしていた。


新年酒1ときどきお酒も飲んだ。各地の友人たちがおいしいお酒を送ってくれた。写真のは山口のFさんが贈ってくれた獺祭だが、磨き2割3分、遠心分離、元旦届け、というのもすごく、おいしかった。(ほかのお酒も順次紹介します。)



北田酒器は北田耕也先生が送ってくださった。もともとは、ぼくの恩師である木下春雄先生のものだったが、亡くなったときに親友の北田先生のところに行っていた。「もう君に渡したい、木下君も喜ぶだろう」と。



朝日新聞1今日4日の朝日新聞朝刊にわが大学の一面広告が載った。ほんとうは、左のページの箱根駅伝で優勝していれば、セットになるはずだったのに。




朝日新聞2夕刊の「人脈記」には、山形の吉田功さんの記事が出ている。どこかで見た顔だと思ったら、ブログ7月10日から13日にかけて書いた長井工業高校調査の時にお世話になった方である。
ここの主題は坂本九さんとの関係だが、長井工業高校のこともかなり紹介されている。


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2011年01月01日

新年

新年1新年5







新年3新年2新年4







新しい年を迎え、一段と気持を奮い立たせて仕事に向かい、みなさんに学びながら楽しく過ごしていきたいと願っています。

1枚目は、長野市の田中から見た志賀高原方面の山々と、2枚目以降は、実家の庭と降りた霜。

昨日、長野に帰り、年越しだけして、さきほど埼玉に戻ったところ。
連れ合いは、雪の予報を見て行くのがいやだと言っていたが、逆にぼくはワクワクする。でも長野に着くと雪はまったくない。ぼくが着くのを待っていたように雪が降り始めたが、1時間ほどすると止んで、西の方から晴れてきた。
2年前火事で焼けて新築なった村の神社に2年参りをするころは、オリオンをはじめ満天の星だった。

それでも元旦は雪、30-40センチは積もる、という予報に期待をかけたが、晴天でごらんのような天候。
(雪を期待したのには、新調したスタッドレスタイヤに雪を体験させたかったこともある。)

おばあちゃんが妹のようにつきあっていたYさん、親しくしているM君夫婦のところに年賀の挨拶をして、埼玉に帰った。

今年もよろしくお願いします。

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