2007年09月

2007年09月29日

CD「土の笛のアヴェ・マリア」

 ここのところ、ほとんどかけ放しで聴いている。宗次郎の鎮魂と祈りの曲集である。逝く魂も、送らなければならない心も、見守る者たちも、すべて鎮められ許され癒されなければならない。

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2007年09月28日

道端で

金杯草秋海棠1秋海棠2 道端のプランターで見つけた。いきなり地面から大ぶりの花が咲いているような不思議な花で、ご主人に名前を聞くと家の裏にいた奥さんを呼んできて、金杯草というのだと教えてくれた。浅い地下茎で増えるのだそうで、「持っていきますか」と分けてくれた。
 少し行くと垣根の下に秋海棠が咲いていた。
 写真はクリックすると、元の大きさになります。


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Tさん、月命日

 今日はTさんの4回目の月命日。急な別れの衝撃がまだ新しくもう4ヶ月という気持ちと、つらい思いをこんなに長くしたのにまだ4ヶ月という気持ちと両方がある。
彼女が残した作品、文章、言葉を集めているが、まだ果たせていない。
 お姉さんのYさんからメールをいただいた。悲しみから癒えることはない、と。ぼくはそのメールで悲しみを新たにするが、メールを下さる方がはるかに悲しみが大きいと思う。でもYさんはそうすることで妹さんの供養をしておられるのかもしれない。

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2007年09月27日

沖縄のふくろう、他

フクロウ1フクロウ2フクロウ3







フクロウ4フクロウ5フクロウ6







フクロウ7フクロウ8上段左、オオシッタイの「しゃし・くまーる」で手に入れた。日本の作家さんのだが、名前を忘れた。中、やはり「しゃし・くまーる」、ネパールのスプーン、柄にフクロウの図柄が。右、あちこちのストラップ、真ん中のは名護の「森の美術館」で。中段。左の陶器、新潟。中、蛇皮のストラップは許田の道の駅で。右は、名護十字路近くの骨董屋さんで、タイ製。下段。左、同じくタイ、どこから見てもE.T.のよう。目も赤い。食器棚の塩の入れ物は昔から。


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中秋

中秋の名月1中秋の名月2 中秋とは陰暦8月15日のことをいうらしい。今年は晴れたが、ひとはそれぞれどんな思いで、この月を見たのだろうか。目にはよく見えた兎も撮れなかったし、月にかかる木の葉もうまく撮れなかった。

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2007年09月25日

アケビ酒

アケビ酒 今年はアケビが豊作だったので、ご近所にあげたり、肉詰めにして食べたが、最後の4つはアケビ酒にした。皮の部分は、オヒタシと豚肉の炒め物。後ろの皿は沖縄で手に入れた印判もの。

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2007年09月24日

沖縄12 −30,31日/名護の東海岸、西海岸

嘉陽の花嘉陽の海1嘉陽の海2







バナナ名護の海 「エコネット美」の「じんぶん学校」に行く学生を送りに嘉陽までいく。迎えに出ていてくれたスタッフの中にモリ君がいて、久しぶり、と覚えていてくれる。数年前の当時はまだジモリの生徒だった。嘉陽は名護の東海岸であり、海は太平洋。最後の写真は西海岸で、海は東シナ海。
 バナナは、オオシッタイの「しゃし・くまーる」という喫茶店のもの。

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沖縄11 −30日/辺野古

ホウオウボク1ホウオウボク2アカバナ







安次富さん辺野古テント1辺野古テント2







辺野古テント3辺野古の海辺野古へ。集合場所の辺野古交番の近くには、立派なホウオウボクがあった。花の形が鳳凰に似ているかららしい。アカバナはテントの浦の塀に咲いていた。この日は、調査船が10数隻出てきており、反対派側には説得、阻止のためのボートが3隻しかなく劣勢ということで、約束していた東恩納琢磨さんも海上に出てしまっていた。それでヘリ基地反対協の安次富浩共同代表が話をしてくれた。辺野古の海はあくまできれい。

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沖縄10 −花と蝶、交流会

花と蝶1花と蝶2花と蝶3







交流会1交流会2 この時期、沖縄は蝶が多い。花も蝶も勝山地区周辺で。夜は、再び名護市中央公民館で交流会。この日は、宮城さんと、島袋正敏さんが来てくださる。

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沖縄9 −勝山地区のまちづくり

勝山1勝山2勝山3







勝山4勝山5 勝山地区は名護市の本部町寄りの山間にあって、シーカーサーのまちづくりをまちづくりをすすめている。その理念も方法もなかなかに面白い。まだ30代という若い区長の宮城さんがリーダーである。去年につづいての訪問である。最後の写真は、記念碑の峰と背景の三角山の峰を重ねるのが味噌だという。

 

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沖縄8 −みんたまぁ

みんたまぁ1みんたまぁ2みんたまぁ3







名護図書館羽地 名護市博物館の前に、「みんたまぁ」がオープンしていた。島袋正敏さんたち仲間がつくったギャラリーであり、「みんたまぁ」というのは「めんたま」(目の玉)というような意味であるらしい。写真は、島袋さんの作品で、漆喰シーサーと、竹細工。後者は「ぜん動」という題で、最近ご自身が大腸のポリープを除去したことから腸のぜん動運動をイメージされてのことだそうである。これは、当番の片野説明。そこに鍛金作家の田中康嗣さんもおられてご自身の作品を展示していた。ぼくは、打ち出しのぐい飲みの制作を依頼した。写真は、後で送られてきたもの。ついでに後ろのポン酢は、この後の記事の勝山のもの。
 名護市図書館は島袋さんが館長として手がけたもの。同行の松崎さんは、鶴ヶ島でやはり図書館の建設に関わり、佐野さんは職員として働いているので、専門的な見地で見学。このときはにわか雨だったが、直後に羽地地区センターを訪ねたときには晴れ上がっていた。ここの図書館分館に卒業生のTさんが働いているので、彼女に会うために訪ねた。

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2007年09月23日

沖縄7 29日/アグー

ルートイン博物館1博物館2







博物館3博物館4 多事のため中断が多くなったが、沖縄の報告はしておきたい。28日は朝、名護市博物館に行く社会教育班に同行した。ここは島袋正敏さんがつくり、館長を務めた館である。当時、沖縄固有の豚であるアグーが沖縄全体でも30頭ほどになってしまい絶滅の危機にあるというので、博物館としても黙視できず、そのうち18頭を集めた。島袋さんは博物館で飼いたかったらしいが、「博物館は動物園ではない」という教育委員会の意見で、(そのとき、島袋さんは、「それはそうだが、動物園は博物館だ」とつぶやいたと言うことだ。)仕方なく、北部農林高校の太田先生に預けた。それが今や沖縄の黒豚牛のブランドになっている。メールを見れば、島袋さんはアグーを救った男として出ているし、今回も帰りに寄った許田の道の駅には、北部農林高校特産のチャーグーが島袋さんの写真とともに宣伝、販売されている。
 最初の写真は、泊まったルートインから本部半島方面を撮ったもの。ブーゲンビリアは名護市博物館の玄関の上。それからアグー。名護湾でかつて漁をしていた鯨。博物館には、民俗的な展示もある。結婚式の習俗も紹介されており、最後のはその一枚。仲人の島袋さん夫婦が踊っている。この写真がぼくは実に好きだ。

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2007年09月22日

「ぼすとんばっぐ」

 「みやらび」で驚いたことのもう一つは、そのスタッフや常連さんたちが富士見市の文化ホール「きらりふじみ」でやった「肝高の阿麻和利」の公演を見に来てくださっていたことであった。「肝高の阿麻和利」は、平田大一さんが制作演出し 沖縄・勝連町の中学生高校生たちが出演する現代版組踊りなのだが、その関東公演のひとつとして、地域で実行委員会をつくり、僕のゼミの学生たちもその一翼を担った。
 考えてみれば、ぼくが「みやらび」へ来るようになったのは、その縁で、実行委員だった飯沼さんがこの店に来たからであった。

 いま、「いいぬ」くらいまで書いたら、その飯沼さんから電話が入った。浦和の埼玉会館からで、そこは浦和商業定時制出身者の「太鼓集団響」の公演が行われている会場である。ぼくが会場のどこかにいるのではないかと思って、とのことだった。じつは、ぼくは午後からそこにいて、第一部の浦和商業定時制を記録した映画「来た道」を観てきたのだ。しかし、今夜新宿で大学の卒業生の同窓会が行われることになっていて、ぼくはそちらへ向かったのである。(そうしたら、会場を確かめる僕のメールには、非情にも、明日の間違い!という返事が来て、でも出てしまったので、疲れてもいるし、自宅へ来たのであった。)
 飯沼さんは、夜の部は会場が超満員で、太鼓のパーフォーマンスもすごいと感激していた。残念。

 山之口漠さんの定本の詩集があったはずで、その装丁まで思い出すことができるのだけれど見あたらない。それで町の図書館にいったがそこにもなく、でもかわりに『山之口漠沖縄随筆集』(平凡社)と茨木のり子さんの『漠さんがゆく』(童話社)を借りてきた。この『漠さんがゆく』がすこぶる面白い。
 もともと詩人というものは食べていくというのは大変だが、山之口さんは一編の詩に四年もかけるというように極めて寡作で、一生を極貧のなかで暮らした。そういう詩が並ぶ。

自己紹介

ここに寄り集まった諸氏よ
先ほどから諸氏の位置に就いて考えているうちに
考えている僕の姿に僕は気がついたのであります

僕ですか?
これはまことに自惚れるようですが
貧乏なのであります


ぼすとんばっぐ

ぼすとんばっぐを
ぶらさげているので
ミミコはふしぎな顔をしていたが
いつものように
手を振った
いってらっしゃいと
手を振った
ぼくもまたいつものように
いってまいりまあすとふりかえったが
まもなく質屋の
門をくぐったのだ


深夜

これをたのむと言いながら
風呂敷包にくるんで来たものを
そこにころがせてみせると
質屋はかぶりを横に振ったのだ
なんとかならぬかとたのんでみるのだが
質屋はかぶりをまた振って
おあずかりいたしかねるとのことなのだ
なんとかならぬものかと更にたのんでみると
質屋はかぶりを振り振りして
いきものなんてのはどうにも
おあずかりいたしかねると言うのだ
死んではこまるので
お願いに来たのだと言うと
質屋はまたまたかぶりを振って
いきものなんぞおあずかりしたのでは
餌代にかかって
商売にならぬと来たのだ
そこでどうやらぼくの目がさめた
明りをつけると
いましがたそこに
風呂敷包からころがり出たばかり
娘に女房が
寝ころんでいるのだ

 一生を極貧の中で暮らしたと行っても、「ミミコの独立」のように少しの曇りも暗さもなく、伸びやかだし、「ぼすとんばっぐ」も「深夜」もユーモアに満ちている。
 茨木さんは、まずしさゆえに他人に頼り、迷惑もかけたのに、これほど愛され大事にされた人はいない、と断言している。


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2007年09月21日

「ミミコの独立」

 もうだいぶ時間が経ってしまったが、池袋にある沖縄料理店の「みやらび」へ行った。
 こういう場所での思わぬ遭遇というものはよくあるらしく、以前にもどこかで書いたが、駒形の「どぜう」に行ったとき、同行の中谷健太郎さんのお知り合いの檀太郎さん一家と隣り合わせたこともある。
 この日は、隣の席は、同行の友人が話しかけたことから会話が生まれ、それでわかったのだが小島憲二さんだった。ぼくはその分野は素人でわからないのだけれど、伊賀に窯を持つ陶芸家で、この日東武デパートでの個展を終えたところだということだった。ネットで見ても著名な方なのだが、驚いたのはぼくらも知り合いである音楽家の中川昌一朗さんや漆芸家の原田城二さんと親しくていらっしゃることだった。お二人のことはこのブログの2005年9月29日、06年9月20日に書いた。まったくもって世間は狭い。

 「みやらび」の壁にはこの店を訪れた著名な方たちの色紙が貼られているのだが、檀一雄さんの色紙もあって話題になっていた。前出の檀さんのお父上でもある。
 たしか檀さんは池袋界隈のことを書いていたなあと思い、家へ帰って調べてみると、『わが百味真髄』のなかにこんな記述があった。

 ……豚の足を喰わせる店ならたいてい行く。
 池袋だったら、「おもろ」だとか、「みやらび」だとか、新宿だったら、「花風」だとかの琉球泡盛屋の「アシテビチ」(豚の足)。あの「アシテビチ」さえあれば、私はしごく満悦して、泡盛に酔っぱらう。
 たとえば、「おもろ」の「豚の足」と泡盛の奇縁によって、亡くなった琉球亡命者の山之口漠氏や、伊波南哲氏などとも、知り合った。……漠さんが、手拭いをかぶり、くねる手つきで、花風(はなふう)を踊りだすといったありさまであった。漠さんの吹き鳴らす、威勢のよい指笛の音が、今でも聞こえてくるような心地さえする。……

 山之口漠氏について僕が初めて知ったのは、おそらく30年くらい以前の『月刊社会教育』誌に掲載された北田耕也さんの文章によってだったと思う。当時はまだ山之口漠氏は存命だったはずだから北田さんは「おもろ」あたりで漠さんと飲んでいたのではないかと思う。そのなかで心打たれた詩が「ミミコの独立」だった。

 ミミコの独立

とうちゃんの下駄なんか
はくんじゃないぞ
ぼくはその場を見ていったが
とうちゃんのなんか
はかないよ
とうちゃんのかんこをかりてって
ミミコのかんこ
はくんだ というのだ
こんな理屈をこねてみせながら
ミミコは小さなそのあんよで
まな板みたいな下駄をひきずって行った
土間では片隅の
かますの上に
赤い鼻緒の
赤いかんこが
かぼちゃと並んで待っていた


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2007年09月20日

アケビ

アケビ1アケビ2アケビ3

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2007年09月10日

桜本

 太田幸子さんが亡くなった。81歳だった。3月17日のブログに書いたように、ぼくは若いときにほんとうにお世話になった。病室の慰みにと季節の花の写真を届け始めて、もうじき2年になる。今回も連れ合いがアザミとフジバカマの写真を持っていって飾ってきたところだった。ご逝去はその翌日だったので近しい友人では最後にお会いしたことになる。
 昨日川崎市の桜本までお通夜に行った。最後は苦しい闘病の時期もあったので、お顔はやすらかに見えた。ずっと看つづけた故木下春雄さんの奥さんやスギさん、いま議員の市古さん、それに池田博穂さん、いずれもセツルメントの先輩や同僚である方々ともお会いした。池田さんは小林多喜二のドキュメンタリー映画「時代を撃て」の監督であり、試写会以来である。生前の太田さんのあれこれを偲んだ。合掌。

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沖縄6 28日/名護市中央公民館・交流会

公民館交流会1公民館交流会2公民館交流会3






山桜  名護市のエイサーを中心とした青年会である「やんばる船」との定例の交流会が、今年はお盆と重なってできなくなった。そのかわりというのではないが、浦和商業高校定時制の平野和弘先生をはじめとする体育同志会の皆さんとの交流会となった。その後、場所を山桜に移してつづき。ここは行きつけになった。


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沖縄5 28日/平田大一さん

平田大一さん1平田大一さん2平田大一さん3







 国立劇場に平田大一さんを訪ねた。平田さんは「肝高の阿麻和利」の制作・演出家であり、今は「レキオス」をはじめ地域の文化活動によるまちおこしに走り回っている。10月14日には、埼玉県嵐山のヌエック(国立女性教育会館)で開かれる私学の全国父母懇談会の全国集会に来ることになっており、学生たちも楽器や踊りで参加するのでそのうち合わせも兼ねてのことである。

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沖縄4 28日/桃原小学校

海・宮城島 桃原小学校は、うるま市の宮城島にある。全校生徒10人の小さな学校である。それでも二桁になったのは3年ぶりとかである。島野住民全体の支えで学校教育が成り立っている。ハーリー大会など地域の行事も盛んである。逆に、小学校があることで地域の人々の生活がつながり存在し続けているという。




桃原小学校1桃原小学校2桃原小学校3

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沖縄3 27日/ひめゆり記念館・平和祈念資料館

ひめゆり記念館1ひめゆり記念館2平和の礎







平和祈念資料館1平和祈念資料館2海・摩文仁

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沖縄2 27日/アブチラガマ

アブチラガマ1アブチラガマ2アブチラガマ3







 沖縄では、全体・班あわせて18の個人、団体、施設を訪ね、調査・聞き取りなどを行い、2回の交流会を持った。アブチラガマは、沖縄国際大学の平和ガイドの2名の学生が案内をしてくれた。住民の避難場所として、後には陸軍病院が置かれた。

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2007年09月07日

小さな

小さないのち
信じて祈る

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2007年09月01日

沖縄1

沖縄・空港1沖縄・空港2沖縄・空港3 昨日まで5日間、学生たちと沖縄に行ってきた。ゼミ調査合宿のためである。卒業生、職場や地域の同僚も加わった。天気は連日晴れ上がり、あくまで沖縄の空、海だった。ときに訪問中のうるま市や名護市沖で竜巻も発生したが。着いたところ、空港とレンタカー会社で。

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