2007年07月

2007年07月31日

フクロウ2

陶器フクロウ1陶器2陶器3 陶器のもの。左の写真、左右は日本、中タイ。中、スペイン他。右、ミニポット。お土産にいただいたものもある。

masao55ota1 at 15:18|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2007年07月29日

定時制・通信制

慶山山梨集会1山梨集会2








鈴木夫妻  28日、29日と高校定時制・通信制教育の研究会に行ってきた。
 山梨の石和温泉で開かれた。畏友・松崎頼行さんのクルマに、坂戸で乗せてもらって石和温泉に行った。会場は「華やぎの章 慶山」という。どこかで聞いたことがあると思ったが、ホテルに入ってロビーの風景ですぐ思い出した。ここは数年前に社会教育推進協議会の全国集会が開かれたところであり、写真の錦鯉が泳いでいる水路にノノさんがズボンをはいたままヅボンと落ちたのだ。
 石和温泉は昭和30年代に葡萄畑の中に突然と湧きだした温泉で、歴史もないからぼくにはあまり面白くない。松崎さんに言わせると、首都圏からの職場の慰安会などに使われてきたそうで、地元の先生の話ではコンパニオンの数では今は熱海を抜いて日本一だそうである。写真は部屋の窓から見た夕暮れ。
 開会の集会で、埼玉の高校生のアトラクションがあったが、写真の一人はぼくの家から2,3kmのところに住んでいると、後で話して知った。
 全国から高校教師、親、高校生が参加したが、地元の鈴木正洋さん、はつみさんご夫妻も参加されており、夜の懇親会終了後、ぼくの部屋を訪ねてくださってお話しすることができた。お二人の息子さんの正輝君が不登校になったとき、沖縄の鳩間島に「留学」した。そのときの経験を『不登校だったボク豊島の物語』(ふきのとう書房)にまとめておられる。
 夜遅く、浦和商業定時制を卒業して、ぼくの大学に進み、今はぼくのゼミに所属する飯島学君が着いた。彼はある意味で有名人だから、ここは本名で書いていいだろう。23日10時から1時間、日本テレビで浦和商業について放映された「ていじせー」をDVDにやいたのを持ってきてくれた。午前中にぼくが無理を言ったので遅くなったかもしれない。翌日の集会でも活躍してくれた。
 久しぶりに、同室の松崎さん、若い友人たちと遅くまで飲んだ。
 翌日午後はパネル・ディスカッション。そのパネラーとして蓮見成男さんが来てくれた。彼は中小企業家同友会全国協議会の事務局長である。もう30数年前、東京の三多摩の公民館で開かれた青年学級でいっしょだった。いわば幼馴染みである。しかも長じてからも、分野を違えていっしょに仕事をしている。ぼくは同友会の仕事を頼まれることも多いし、彼に頼む仕事も多い。若かった頃の、お互いのヤンチャ、ワルサを暴露し合ってのパネルだった。


masao55ota1 at 23:29|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2007年07月28日

ふくろう

ふくろう ふくろうの置物は、日本の各地にあるし、外国でもすごく多い。ヨーロッパでは知恵の神様といわれる。「ミネルヴァのフクロウ」というのもある。日本ではかつてはあまり縁起がよいとされなかったようだが、最近は「福郎」など書かれて喜ばれている。最近陶器が多い。そのひとつ、これが最高にできがいいとぼくは思う。

masao55ota1 at 10:49|PermalinkComments(1)TrackBack(0)

祝い酒

ます鏡かたりべ 左、満寿鏡(新潟県加茂市)はまなみさん・Y三君から父の日の祝いでもらったもの。2人が来たので開けた。右、新潟のマナミさんの実家の方で結婚のお祝いをしてもらうというので、今度は2人にあげた。「信濃のかたりべ」に手書きのラベルを付けた。


masao55ota1 at 10:42|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

通夜

通夜  少し時間が経ってしまったが、小川さんのお通夜は人数は少なかったが、それぞれの出会いや思い出も語られていい会だった。
 
 ぼくらの席の近くに、徳永功さんがおられた。1960年代、三多摩の公民館活動は全盛期を迎えるが、公民館職員の研究活動の場として三多摩社会教育懇談会(三社懇)があり、小川さんもその中にいた。そこが実質的な中心になって、1974年にいわゆる「三多摩テーゼ」(「新しい公民館像をめざして」)が出される。その前史としての役割を果たしたのが「公民館3階建て」論というもので、「出会いと交流」→「集団化、サークル活動」→「学習活動、講座」という図式を提示した。地域共同体が崩壊し、個ないし孤から出発しなければならなくなった社会での新しい活動のあり方を示したものであり、それは徳永功さんの個人名で語られることが多い。徳永さんはもちろん小川さんもまだ30代だったのではないか。
 お酒をこよなく愛した小川さんだったが、あるとき居酒屋の前で小川さんとKさんが相撲を取り、喧嘩ではなかったらしいが、入り口の戸に突っ込んでしまい、あとで徳永さんが謝りに行って弁償をしてきたという話などしてくれた。

 ところで、徳永さんは長野県須坂市の出身である。
 ぼくの高校の一年後輩で須坂市出身の越M男君がいて東大工学部の教員をしているが、暮れと盆に長野に帰って彼を含む数人と飲む習慣は何十年も欠かしたことがない。そういえば越君から徳永さんのことを聞いていたなあ、と話を向けた。
 徳永さんは若いときから越くんのお父上の統太郎さんと親しく、家族同様のつきあいをさせてもらった、自分の家にいるより統太郎さんの家にいる方が長かったという。統太郎さんは戦後中配(中部電力)に勤めており、後に述べるような家柄もあって将来は幹部として嘱望されていたのだが、労働運動にかかわりレッドパージになり、写真館を開業した。一茶研究でも知られた文化人であり、晩年は須坂の蔵づくりの町並保存の運動もされた。ご自身の写真集もご本人からもらったこともある。
 統太郎さんのおじいさん、越君からすれば曾祖父にあたる人で寿三郎さんという人がいて、この人は明治の最初頃、製糸を始めて「製糸王」と呼ばれるほどになった。ぼくが高校時代、越君の名前を親に言うと、あの越財閥の!と驚かれたものである。寿三郎さんは今の信越化学も創業した、骨董に造詣が深く、いくつもの山ほどの投資もしたという。越君の兄弟のことなど、徳永さんも話していた面白いことはたくさんあるが禁欲。

 翌日、テレビで「何でも鑑定団」を見ていた。たまたま「in 須坂」をやっていた。ぼくらがよく集まる須坂温泉の大広間での録画だった。そうしたら、寿三郎さん関係のものが二点も出てきた。

 徳永さんと話したのも、小川さんの功徳である。 

masao55ota1 at 01:19|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2007年07月27日

ヤマユリ

ヤマユリ蓮銀杏の実 まちで見かけた花々。ヤマユリ、蓮、銀杏の青い実。

masao55ota1 at 11:45|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

氷川下セツルメント

氷川下セツル清冽の炎  一昨日、針谷正紀さんから『氷川下セツルメント −「太陽のない街」の青春群像』が贈られてきた。文京区氷川下は、副題にもあるように徳永直の小説『太陽のない街』の舞台にもなった下町の印刷街であり、セツルメントがあった地域のひとつである。
 本は、そこで1951年から1971年まで、学生時代に活動したセツラー60余人の文章を集めたものである。ぼくの同時代の知人もいる。法曹界や研究者など著名な人も多い。そういう意味では、綺羅、星の如くと言ってもよい。しかし、編集も文章もそういうスタンスを取っていない。あるのは学生時代の等身大の自画像であり、仲間や活動の思い出だけが共通の土台である。だからみんな今の肩書きのない「ただの人」である。その頃はどんな夢を持っていたか、振り返るに苦い思い出もあろう、今の自分を思い描けていただろうか。「ただの人」だからこそ、そこにかけがえのない物語があり、人生がある。

 1966年の、たしか5月、セツルメントの全国大会が、多分東京教育大学で開かれた。針谷さんは、全セツ連の委員長として壇上で輝いておられた。ぼくにとってもその後に大きな影響を持つ出会いがあった集会だった。
 針谷さんは卒業後高校教師になられたので、その後さまざまな研究集会でご一緒する機会が多くなった。これもセツルのおかげである。

 昨日は、やはりセツルメント出身の神永理一郎『清冽の炎』第3部が贈られてきた。これはこれから読む。

masao55ota1 at 11:44|PermalinkComments(2)TrackBack(0)

渡辺信二さん

渡辺信二1渡辺信二2 卒業生の渡辺信二君から、「体重76kg(当時60kg)の私と、ぜひ再会してください。でもぎらぎらした眼は当時のままです」という添え書きといっしょに、朝日新聞が贈られてきた。渡辺君は、10数年前のぼくのゼミ長だった。ゆったりと心が大きく、音楽が好きで、たしかクラリネットを演奏する感性すぐれた人だった。
 新聞は6月23日の夕刊で、「自分の言葉に責任とプライドを持つ。そんな目標を掲げる国語の先生に会った。子供らは友達の言葉を聞き、自分の言葉をつないでいく」というリードが付いている。

masao55ota1 at 11:43|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2007年07月26日

百両 −カラタチバナ

カラタチバナ1カラタチバナ2 百両(カラタチバナ)は、何度か試みたがうまくいかなかった。先日、上野で見かけた。しかも勢揃いである。2枚目、右手前、十両(ヤブコウジ)、奥、百両(カラタチバナ)、左中頃、万両、その向こう、千両(コウジ)。中央、ハナミョウガ。

masao55ota1 at 11:45|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

ゼミ飲み(若者用語)

ゼミ飲み  大学はもう試験期間もそろそろ終わり夏休みにはいるというのに、ゼミの学習会は延々と続いている。合宿調査の準備のためである。今年の学生はとくにすごい。もちろん、ぼくは学生の不勉強に怒ることもあり、それ以上に指導の熱意と力量の足らないことに自らいらだつこともあるが、基本的に助けられて共同の作業をしている。
 卒業生のTさんの突然の死という嵐に襲われた2ヶ月だった。3月に撮った2人の写真を研究室の書棚に置いていたら、Eさんはいつのまにか額に入れて飾ってくれている。今日のゼミ飲みのとき、Yさんが自分で焼いたという七宝焼きのハイビスカスを、先生元気出して、と言って持ってきてくれた。ネクタイピンにして、と頼んだらまた持って帰ったが。それぞれに、お互いに気遣ってきた2ヶ月だった。ありがたい。
 いずれも個性的な魅力溢れる面々である。

masao55ota1 at 11:40|PermalinkComments(2)TrackBack(0)

モンブランのインク

モンブランのインク  ぼくの町にできたスーパー・ビバホームというショッピングセンターは実に巨大で、ホームセンターからガーデニングから何でもある。1階には、業務用のような安い事務用品のコーナーがあって、パソコン周辺用品などが売られているが、2階は趣味の紙や三宝、ステーショナリーの店があって楽しい。
 そこでモンブランのインク、ローヤルブルーと黒を手に入れてきた。モンブランのインクは靴のかたちをしているのだが、今度買ったのはいつからだか知らないが、少しモデルチェンジをしていて現代的だ。見ようによっては、キャップのある方が頭の、犬のようでもある。
 わざわざ買いに行ったのは、最近はずっとワープロになってしまって、手書きの習慣が薄れてしまったことの反省と、手書きでもボールペンではなく、万年筆でインクの匂いを嗅ぎながら書いてみたかったからだ。
 万年筆はモンブラン・マイスターシュティックの146と149で、まだ若いときに清水の舞台から飛び降りるような気持ちで買って30数年使っている。何度も修理に出して変わっていないのはペン先だけで、ほかはすべて何度か交換した。
 大江健三郎さんのインクは多分明るいローヤルブルーである。中谷健太郎さんは太字の黒である。
 今は手書きは手紙くらいになってしまったが、この機会にと思って、今日職場に持って行って万年筆で会議の記録を書いていた。ふと見るとトイ面の席の人が万年筆を使っていた。なんとなく嬉しかった。

masao55ota1 at 11:38|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

お祝い −浮間辺り

浮間辺り帯祝いモモ1 お祝い。久々の浮間。久々の会食。

masao55ota1 at 11:37|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2007年07月24日

万両

万両1万両赤万両白 万両はまだ花が咲いているところ。赤い実と白い実があるが、花のときからわかる。あとは実が大きいか小さいか、葉の縮れぐあいの変化がある。


masao55ota1 at 22:50|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2007年07月23日

千両3色

千両赤千両黒千両白 十両はもうけっこう大きな実になっているが、千両はまだ小さい。左から赤い実、黒い実、黄色の実になる。黄色の実は、今年の1月8日のブログにある。

masao55ota1 at 10:45|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

『誘拐』

 このブログの2月18日付に『本田靖春集』第1巻に寄せて書いた。それはそこに収められている六ヶ所村についてのドキュメンタリー、『村が消えた』について書いたものだが、同巻に収められている『誘拐』について、職場の同僚のOsさんから、あれは名著ですよ、勧められた。
 あらためて今度読んでみた。たしかに名著である。『誘拐』は、1963年に起きた吉展ちゃん事件を取材したものである。ノンフィクションの読み物の大半は、難航を極めた犯人逮捕までの刑事の追及が中心である。小原保のアリバイを崩し、本人の自白を取るまでの過程は、松本清張やコロンボにも似て、しかし事実だけに文字通り迫真の推理物語である。
 しかし、この文章の真骨頂は、最後の章「遺書」であろう。すでに著者は、それまでの展開の中で、犯人小原保が福島で極貧といってもいい育ちをし、小さな怪我がもとで足に障害を持つようになったことで、職業や人間関係で苦労をしてきたことについては十分に書いている。そこにあるのは、解説の鎌田慧さんも書いているように、貧しいもの、虐げられたものたちへの視線である。

 ぼくも、これに似た感慨を持った経験がある。
 数年前、T市の依頼を受けて行った中学生が関与した金属バット連続強盗事件(うち1件が殺人)の調査をし、主犯の裁判を傍聴したときである。検察の追及によって犯人の口から語られる事件のなまなましい様相は、吐き気を催すほどのおどろおどろしさで、憎んでも憎みきれない感興を催し、遺影を抱いて傍聴している被害者の家族の席からはすすり泣きが絶えなかった。しかし、弁護士の問いかけに答えて語る彼の生い立ちは、まだ20歳という若さゆえのたどたどしさもあって、貧しさと家族の暴力、崩壊のすさまじさも伝えた。中学校はほとんど行かなかったこと、しかもひもじさゆえに給食だけは食べに行っていたことなどが語られた。あとは逸脱と反抗との人生だった。同席の友人が言ったように、彼のこれまでの人生で、裁判とはいえ、そして数時間とはいえ、これだけ自分について尋ねられ、自分について語った時間はなかったのではないか。

 繰り返すが、『誘拐』の圧巻は、刑事の執拗な追及の前に小原が自ら自白し、死刑を宣告されて、獄中生活を送るようになってから刑の執行に至るまでの、最終の「遺書」の章であろう。ここに本田さんがなぜこの本を書いたのかの動機のすべてがある。
 小原は、仏教に帰依し、弁護士の勧めも断って自ら極刑を志願する。
 初公判の、陳述である。

 …私は人間社会において最高の刑を犯したのですから、最高の刑罰を受けることは当然と心得ていますし、自供以前にすでに覚悟致しておりました。とにかくこの事件は、山より重く頓く、海よりも深い罪でありますので、到底、私の今生においては償い切わないほどの罪であると考えておりますが、釈尊の教えによれば、どのような悪人でも改心して信仰することによって成仏出来、またこの世に生まれてくることが出来るといぅ経典の一節がありますので、今世において償い切れないところはまた来世と、七度この世に生まれてきて償いが出来るように、朝にタに、吉展ちゃんの冥福を祈りながら信仰に励んでおります。…

 小原はまた、短歌を志すようになる。『林間』という同人のほか、療養者の短歌会である『土偶』にも参加する。小原からの参加の申し出を受けた森川爾郎は、「自分にも死の宣告を受けたにひとしい、つらく、苦しく、耐え難い病舎での日々があった。苦しいときにはその苦しみを、悲しいときにはその悲しみを、彼にも読ませてやりたい。明日にも処刑が訪れかねない生命の極みにいて、きっと真実の叫びを詠み続けるであろう」と考える。しかし、同人から拒否されてペンネームでの参加の道を開く。
 森川は、かれの歌を見て次のようにも言う。
 「如何に凶悪無惨な性格を持った人間でも、その人の心掛け如何によっては、かくの如く生まれて来たまま善良さに立ち戻ることが出来る」。

詫びとしてこの外あらず冥福を炎の如く声に祈るなり

辞世
明日の死を前にひたすら打ちつづく鼓動を指にききつつ眠る
世をあとにいま逝くわれに花びらを降らすか門の若き枇杷の木

 事件は、1963年に起きた。昭和で言うと38年、30年代末である。『東京タワー』、「3丁目の夕陽」より少し後で、貧しさと高度経済成長のゆたかさの境目だった。



masao55ota1 at 10:28|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2007年07月22日

ヤブコウジ(十両)

ヤブコウジ1ヤブコウジ2ヤブコウジ3 庭のヤブコウジ。庭には4,5種類あるのではないか。十両とも言う。同種の種物では一番安い名前「十両」に貶められているが、種類が多く、好事家にはたまらない魅力があるらしい。


masao55ota1 at 22:03|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

記憶

書店・若葉コーヒーメーカー  ぼくの神経は少し疲れてただれているので過敏ではあるが、外界の刺激や情報をかならずしも正確には伝えてくれない。刺激や情報は、その人の過去の記憶と結んで初めて意味あるものとして受け入れられるのだと思うけれど、痛んだ神経はときとして刺激や情報を拒否することがある。
 大江健三郎さんは、数日前の新聞で、記憶の、感情との関係を含むいわば身体性について書いていた。

……さて私はいま、「後期の仕事」のさらに後の方の小説を書いています。そのなかで、かなり以前私の生活に大きい位置をしめていたひとつの音楽を、小説の、私自身に重なる語り手に回想させることが必要になりました。誰のどういう作品かは、記憶にはっきりしています。苦しい出来事があり、仕事ができなくなった半年ほど、いつも聴いていた作品なのです。ただ、その演奏家を思い出せない。もう夜更けで、光は寝ています。数人のピアニストを選び出して聴いてみますがどれもあの時期の感情を私に恢復させない。
 そこで私は、光が真夜中すぎトイレに行き、私が起きていれは毛布をかけてやる時間まで待っていました。
 −パパがずっと前、調子が悪くて、毎日ベートーヴェンの作品111を聴いてたね? あれは誰のCD?
 光はもう一度ベッドから起きて、かれには特別なピアニスト、フリードリツヒ・グルダの二枚を取り出すと58年録音のモノラルのものをかけてくれました。正解。私らは音を小さくして、夜明けまで聴いていました。

 「苦しい出来事があり、仕事ができなくなった」ことにも関心は向かう、大江さんは当時「むすぼれ」という言葉でこれを表現していた。「むすぼれ」は「結ぼれる」ことから造語(異化)した用語法だと思うが、気分がふさぎ晴れ晴れしないことをいうのだと思う。
 閑話休題。今、読んでいる内山節さんの本ももっぱら記憶の身体性について論じているが、これについてはまたいずれ。

 ぼくも医薬の援助も得て少し身体性を恢復してきたかとも思う。数日間寝られるようになったことが大きい。もちろん、知的な意味での記憶の力は落ちる一方であるが。
 そう思ったのは、一度は、鶴ヶ島市の若葉ウォークというショッピングモールの中にある書店に入ったとき。そこは、明るすぎない落ち着いた照明の具合もよかったのだが、何といっても店いっぱいに溢れる本の匂いになつかしさに包まれた。ぼくは中学生の頃、高校生の頃、書店の本の匂いがたまらなく好きだった。本の匂いというのは、おそらくは本の印刷の新しいインクの匂いだったのだろうと思う。もちろん少し黴びた図書館の匂いも好きだったが。こういう書店が少なくなった。ぼくは若者の時代に戻った。
 もう一度は、数日前の朝、お茶を見て、湯気とともに香りを嗅いだときである。一番のお茶、食後のコーヒーは至福である。それで今のrefineのコーヒーメーカーでなく、エスプレッソのコーヒーメーカーを出してみた。イギリスでSさんにもらったビアレッティのは腐食してしまっていた。写真は、その後継で、佐藤夫妻にもらったものである。ぼくはもらってばかりいる。「アレッシイ社のエスプレッソメーカー6ですね。イタリア製でニューヨーク近代美術館の永久所蔵品にも選ばれていたと思います。1979年に発表されたのですが、28年間たった今でも人気商品です。」だそうだ。カップは熊谷榧さんのもの。これは自分で買った。


masao55ota1 at 19:20|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

巨星墜つ

小川先生1小川先生2  小川利夫さんが昨21日、亡くなった。ぼくが最初にお会いしたのは、大学3年生のとき、1967年の「公民館論」の授業だったからちょうど40年前ということになる。そのころ小川さんは、教育制度検討委員会の事務局長をしており、すでに大「先生」であったのだけれど、若いぼくらにも自分を「さん」と呼べ、と言い、ぼくらはずっとそうしてきたので、ここでもそう呼ばせてもらう。もっとも外の研究会では、それはあまりに失礼だろうからと「先生」をつけて呼んでいたら、たしか教育科学研究会だったと思うが、今度は参加者から、師弟関係を持ち込むなと叱られたこともあった。学問では厳しかったが、面倒見はよく、結婚前のぼくの彼女にバレー公演の招待券を送ってくれるようなこともあった。

 小川さんはその後名古屋大学に行き、社会教育推進全国協議会委員長、日本社会教育学会会長などを歴任された。文字通り巨星だった。小川さんのすごいのは、社会教育だけでなく、先の教育制度検討委員会や教育科学研究会の活動など青年期教育を軸として学校教育をも研究の対象としておられたことで、それは宮原誠一さんの後継としてのお仕事だった。学校と社会教育というウィングを広げるという点では、ぼくの一番の目標とする人でもあった。もちろんぼくなどは足元にも及ばないが。さらに、小川さんは社会福祉という分野でも開拓的な仕事をされたのであり、巨星の名にふさわしい。

 よくいっしょに仕事をさせてもらい、よく飲み、議論した。飲んだあと、小川さんの家へ泊めてもらったこともあるし、小川さんがぼくの家に泊まったこともある。
 飲むと、小川さんが好きだった民謡に、「織田の蛙(かわず)がなー、織田のかわずがなー、三升の樽をそーらばえ、ひゅるひゅるひゅー、ひゅるひゅるひゅ」というのがあって、これに手の振りを付けて歌わせられるのだった。これは織田信長に対する美濃の民衆の抵抗の歌だという解説だった。最初は、忘れもしない、1970年、岐阜の教育研究集会の夜だった。振りの要領が悪いぼくは何度もやり直させられたものだ。
 今度調べてみると、そういう歌詞の民謡はどこにも見あたらず、「おばば」というのが本歌ではないかと推定される。
おばばどこきゃるなナーナーナー
おばばどこきゃるナー
三升樽下げてソーリャモエ
ひゅるひゅるひゅー、どんどんどんどん

 すでに10年以上前に、『小川利夫社会教育論集』全8巻(亜紀書房)が出されている。ぼくもそのどこかに『月報』を書かせてもらったはずだが、探してみたがその『月報』がない。仕方なく、その原稿はないかと探していると、小川さんの「『心のリハビリ通信』刊行の辞」の手書き原稿コピーと、手書きの私信が出てきた。
 「刊行の辞」は、次のように始まる。

 昨年の五月初旬に大病にかかってから、一年余、どうやら元気になったとはいうものの、もとのような体になったとはいえない。体ばかりではなく、「心のリハビリ」の必要性を痛感するようになったというべきであろう。そこで本誌のような『心のリハビリ通信』を刊行することにした。その理由の第一は、言うまでもなく、私自身の心のリハビリのためである。しかし、それだけではない。妻寿子をはじめ私の家族さらにはなにかと心を配ってくださる多くの人々に近況を伝えてお礼したいからである。……

 これらは後に、『心のリハビリ通信集成』としてまとめられた。

 私信は、あの雄壮で達筆だった小川さんの文字そのものではないが、リハビリを兼ねてということもあるのだろう、鉛筆で一字一字端正に書かれており、200字詰め10枚にも及ぶ。そのうちの何枚かは、コーヒーかお茶をこぼしたものでもあろうか、たくさんのシミが付いている。かといっておそらくこれを書くだけに何時間も要したであろう文章を書き直すいとまはなかったにちがいない。
 いまは、このシミのひとつひとつが小川さんの涙のように思われる。
 それにしても日本の教育改革に賭ける小川さんの執念はすごい。最後の最後まで、私心なく追究された。
 以下の文中に出てくる『よんどけ』は、今は中断しているが、かつて友人たちと発行していた地域のミニコミ誌である。

 前略
 『よんどけ』いつもたのしみに、たのしく拝読しています。ご苦労さん。ありがとう。小熊さんはじめ、皆さんに何卒よろしくお伝えください。
 さて、どうしたものかと大分、長い間おもい迷っていましたが、早朝のつれづれに「NHKの深夜便」にたよっているばかりでなく、”老いの探求”の試みのひとつとして、同封のような『通信』をだしてみることにしましたのでおくります。
 次号は、いつでるか、わかりません。風の吹くまま、気のむくまま、体と心のむくままですから、あてにしないでいて下さい。
 但し、これを機会に、毎年が苦役の年賀状の「大仕事」から解放させていただくことにしましたので、身勝手ながら、ご了承下さい。では、いつも、いつまでもお元気であることを祈っています。
1997年11月3日、早朝
小川利夫
○○(ぼく)大兄

(二伸)大兄の編集の『人間と教育』の15号、とくに「座談会」を興味深く読みました。 世界的に、したがって日本にも、かつてきた道のような、もちろん同じではないにしろ、「地域社会学校」の再来、「地域教育計画」の復活を思わせるような昨今の「教育改革」ブームに、あの頃の、若き日の頃のことを改めておもいおこし、かみしめています。しかも、新しいブームの立役者たちがいずれの側の、いずれもそろって、1950年代生まれの、文字通り「戦争を知らない子ども」たちのなかのエリートたちである(例えば、寺脇研 広島生まれ→ラ・サール卒→東大法→文部省生涯学習新官僚)ところに、何かにがにがしい思いがして気にかかるものがあるのは、私の”老い”のなせる業にすぎないのであればいいのですが……。
 これについては、いま、「『戦後日本の6・3制の功罪』と現代教育改革の行方」(仮称)について、やや長文の一文を執筆中なので、できましたら送ります。ご批判、ご教示いただき、大いに論争しましょう。おそくとも、阿智村のセミナーの折にでも。

 なお、それともかかわることですが、今度日本図書センターから、『現代日本教育基本文献そう書』(仮称)なるものを、寺崎昌男さんと平原春好さんと私との「企画編集」ではじめることになりました。どんなものにするか、具体的にはまだ未定ですが、いずれ大兄にも何らかのかたちでご協力して欲しいと私は考えています。
 私は、かのリープクネヒトの演題であった「知は力なり、されど力は知なり」という「名言(Wissen ist Macht ,Macht ist Wissen)をいまも信奉しています。それだけに「第一次教育制度検討委員会」に至るまでを、まず明らかにしよう、そしてそのうえで、その後から今日にいたる問題状況を解明して21世紀を展望したいと念じていますが、どうなりますか。ともあれ、「第一次制度委」の歴史的意義と性格だけは、その限界を含めて、明らかにしておくことは「事務局長」をつとめた私に残された最後の仕事と思っています。そういう思いを未完の私の論集『国民の自己教育運動と教育改革 −日本の教育改革を求めて』で集約したい、と考えているところです。
 そのためには、(1)政策と行政、(2)実践と運動、(3)研究と理論の3つの次元についての全面的な考察が不可欠であると思うのですが、大兄はどう考えておられますか。もちろん、それらは相互にかかわっていますが、ごたごたとかきまわして醗酵させて飲みほしながら酔いしれている余裕は、私には少なくとも残されていませんので、できるだけ全面的に心がけながら、主として第3の次元(研究と理論)の側面にしぼって、それらを文献学的に総括してみる試みのひとつが(一挙には、とても無理なので)今度の「基本文献」の仕事だ、と私は考えています。
 そこで最後に、「日本の教育を考える会」の代表の堀尾輝久さんに一句を捧げますので、お会いする機会があったら、伝えて下さい。
あきもせで蟹のあわ吹き
まだ吹くか
君も吹くなら俺も吹いてみる
 長々と駄弁を弄しました。
 いつも」『よんどけ』をよませていただいているばかりなので、大兄あてのこの私信、『よんどけ』に公開されても、かまいません。すでに古稀を越えて半年近い私には、今さらなにも気にするものはありません。「一路到白頭」(留岡幸助)です。末筆ながら、体にだけは気をつけて下さい。


 「カニのあわ吹き」というのは、いつも議論ばかりしている教育学者たちを見て、堀尾さんのご母堂が、おまえたちを見ているとカニのあわ吹きのようだと評したというところから来ている。
 ちなみに、これに対する堀尾さんの返歌。
いまいちど ともに吹かんか カニのあわ
飲んで歌って考えて
まだまだ吹くぞカニのあわ
 さらに小川さんの返歌
それぞれにカニのあわ吹き吹きまくれ
吹けばそのうち大きなあわに

 2001年11月発行の『心のリハビリ通信』には、『よんどけ』からの引用として、ご自身の似顔絵を載せておられる。
 これは、鶴ヶ島市の社会教育職員である佐藤智さんが毎号描いていた似顔絵である。小川さんは、「秋になりました。『よんどけ』の最新号(No.120)、なんだか見たことがありそうな美男子がいると思ったら、アリガトウ。いやな時代なので、皆さんのお元気に励まされます」とコメントされていた。

 小川さんの通夜は、明日23日午後6時から、告別式は24日午前10時30分から、いずれも東京都稲城市大丸1417 医王寺、において行われる。
 

masao55ota1 at 16:50|PermalinkComments(2)TrackBack(0)

2007年07月17日

カンナ

カンナ1カンナ2 今日、午前中、庭の草木の手入れを少しした。少し元気をもらった。このあたりは今、花が少ない。カンナだけはたくさん咲いている。





カンナ赤カンナ黄色カンナピンク

masao55ota1 at 04:11|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

能古見

能古見 能古見は数年前に、吟醸酒部門と純米酒部門で2年つづけて金賞を取り話題になった。佐賀の銘酒。ぼくはその話を佐賀市で行われた集会で話した。そうしたらそこに出席していた埼玉の高校の図書館司書のkさんが浦和のすはら屋書店の前の酒屋さんにおいてあると教えてくれた。
 手前左の帆立味噌は、新潟の加島屋さんの。右はシマラッキョウ、ぼくが漬けた。

masao55ota1 at 04:08|PermalinkComments(1)TrackBack(0)

2007年07月16日

ヒマワリ

ヒマワリ1ヒマワリ2ヒマワリ3 台風一過。今日の午前中は太陽も出た。もっとも新潟と長野北部で震度6強の地震があり、テレビは終日ニュースを流していた。
 船津さんの畑では、またひまわりが咲き始めた。まだ若くて小さいが、強い。今の僕にはまぶしすぎるくらいだ。

masao55ota1 at 19:16|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2007年07月08日

畑のユリ

畑のユリ 今日も5時には目が覚めてしまったが、無理をして横になっていた。少し熱っぽい。夜に測ったらやはり少し高い。

masao55ota1 at 22:57|PermalinkComments(1)TrackBack(0)

2007年07月07日

さあ、元気を出して

ジャガイモ収穫なすの花なす収穫 ジャガイモは2回目の収穫。キタアカリ、男爵、メイクィーンなど少しずつ植えた。収穫って嬉しい。さあ元気、出して!

キュウリの花キュウリゴーヤの花

masao55ota1 at 19:30|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

カウンター

カウンター1カウンター2カウンター3 この一ヶ月間、映画や演劇をまったく見なかった。ぼくとしては希有なこと。それほど忙しかったということもあるが、そういう気力がおきなかった。ブログにはお酒のことも書かなかった。これは飲まなかったというのではない。むしろ飲んだ。頭で飲んで、目から出すというような飲み方が多かった。

masao55ota1 at 19:18|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

初雪カズラ

初雪カズラ 一昨日、Tさんのお姉さんのYさんと会った。ぼくよりもはるかにおつらいにちがいなく、でも一ヶ月が過ぎたので、いっしょに語り合って偲びたい、また、いろいろ教えてももらいたいと思ってのことだった。声も後ろ姿もそっくりで、思い出してしまって少しつらいことだった。お互いに知らないこともたくさんあり、Tさんの気持ちの一端がわかりかけてきている。Yさんが少しお元気に見えたことは何よりだった。
 初雪カズラは、庭には繁茂しているので昨年はずいぶんと切った。これも定家カズラの一種だそうだ。


masao55ota1 at 19:06|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2007年07月05日

コケシ

コケシ  ヌマッチャンは今年の3月に公民館を定年退職したのだが、なにを思ったのか、単身宮城の蔵王の方に移り住んでいる。先日、家に来て退職記念だと言ってコケシを持ってきてくれた。ヌマッチャンはコケシについてはプロ裸足で、僕の家にあったわずかなコケシも○○系の、だれだれの作品と作者の名前もわかるくらいである。それによると、左から、遠刈田系の吉助、同じく丑蔵、鳴子系の大沼力、それと今回の弥次郎系の佐藤慶明、ということだそうだ。

masao55ota1 at 10:17|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2007年07月04日

引出物

purezennto1プレゼント2プレゼント3







プレゼント4 マナミさんたちからもらった引出物。「呑」「酔」という漢字と名前の一字が刻んである。写真では光線の具合で白く写っているが、実際にはこんなに目立たない。おいしく呑んでくれという子ども心。
 マドラーは、この日、ナッチャンがプレゼントしてくれた父の日の贈り物。お金じゃないです、心です、とナッチャンは強調していた。アルコールの濃度によって、チップが浮き沈みして、色で濃度がわかる。飲み過ぎるなという子ども心。

masao55ota1 at 09:06|PermalinkComments(0)TrackBack(0)