2007年03月

2007年03月31日

坂1坂2 陽気がよくて、時間があるときは、駅から職場までの道を歩くことがある。ちょっと横道にそれると、30年間も通ったのにまったく知らないところに遭遇したりする。そして、一番驚いたのは、坂、それも急坂が多いことだ。
 写真の桜は京徳観音堂という、これも初めて知ったところ。もう一枚の写真は、坂の上から見た写真だが、縄文海進のころは、この坂の下あたりが海辺だったのではないか。遠く走っているのは首都高5号線。

 昨日は職場で、学生指導、会議などなど。胃の痛くなるように難しい課題も多い。終わって夜は研究会兼編集の会議。そして遅くなってKさんの送別会。ぼくとしては3回目、3日連続だが、メンバーが代わっての会である。月末の金曜日、時間が出遅れたこともあって、どこも満員で中華料理店になった。紹興酒で乾杯、8年物だそうだ。
紹興酒

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映画「ホテル・ルワンダ」

 「ホテル・ルワンダ」は、「ルアンダの涙」と同様、1994年の100万人とも言われる大虐殺を主題にしている。ツチ族出身の大統領が暗殺されるところから始まるストーリーも、国連平和維持軍の役割についての評価も同じだ。
 残虐な虐殺場面の描写も似ている。虐殺の武器は中国から輸入したナタなのだが、ナタで殺されるのは恐怖である。「ルアンダの涙」では平和維持軍に対して「自分たちをガンで撃って欲しい、せめて子どもだけは」と頼む場面がある。この映画では、主人公が妻に対して「攻めてこられたら屋上から子どもを連れて飛び降りてくれ」と頼む。
 違うのは、避難場所が学校だったのがホテルになっていること、主人公が白人の牧師と教師だったのが、現地のツチ族の人になっていること、そして、結果として1200人以上の人を救うことができること、である。


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『「はかなさ」と日本人』

竹内本1竹内本2 高校時代以来の友人である著者が『「はかなさ」と日本人』(竹内整一、平凡社新書)を贈ってくれて読んだ。生きる空しさ、無意味、無常などを「はかなさ」という言葉に代表させて古来日本人はそれをどうとらえ、どうつきあい、あるいは克服しようとしてきたかを明らかにしようとしている。「はかなさ」の語源的な解明は著者の得意とするところで、いつも面白い。「無常の徹底」(唐木順三)にならって、「はかなさ」をつきつめ、つき抜ける方法で、文字で残された歴史的な世界に分け入っていく。彼岸をめざす「夢の外へ」、彼岸を志向しつつ此岸に思いを残す「夢の内へ」、「夢と現のあわいで」という分類も面白い。古典や文学作品のもう一つの読み方としても参考になる。
 しかし、こういうことは文字を持たない民衆も同じだったのか、宗教(仏教)の影響はどこまでか・腑分けできるのか、これらは日本人特有なのか、ハイデガーやニーチェへの言及はあるが世界普遍的なのか、等の新たな問いも生まれてくる。

 酒の3首が紹介されている。この日記にちなんで。

賢しみと物言ふよりは酒飲みて酔ひ泣きするし優るたるらし
価(あたい)なき宝といふも一杯(ひとつき)の濁れる酒にあにまさめやも
世の中の遊びの道にかなへるは酔ひ泣きするにあるべかるらし

賢しらぶってものを言うよりは、酒を飲んで酔っぱらって泣いている方がましで あるらしい
仏教の教えも価がつけられないほどに大事な宝だと言っても、一杯の濁り酒にど うしてまさろうか
酔っぱらって泣いて、悲しんで、そして楽しんで、この世を生きていることが大 事なんだ

 読み終わったら『「かなしさ」と日本人』が昨日贈られてきた。 

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2007年03月30日

青木村から塩田へ

青木13青木14青木15







 昼食までには時間があるので、と上田市塩田の前山寺に行った。重要文化財だがここにも三重の塔がある。参道には樹齢700年というケヤキが2本ある。お地蔵さんも向かい合って六体。
 参道脇にある信濃デッサン館は今は休業中である。
 昼食は、「塩田の館」で。ここは地域の営農活性化組合女性部が経営するソバ屋である。「皿そば」が売りである。1700年ころ、上田藩の仙石氏と、出石藩(現在、兵庫但馬)の松平氏がお国替えになり、仙石氏が連れて行った上田のソバ職人が現地で出石焼きの白い小皿に載せて出す皿そばを作ったのだという。出石町(現在豊岡市)と上田市が姉妹都市になって「里帰りそば」として出されるようになったのだそうだ。
 Uさんの、地酒を少々、という要望で「月吉野」(上田・若林醸造)を、運転のHさんの分を除いて3杯(のつもりで)頼んだ。そうしたら、出てきたのは300cc瓶3本だった。昼に3人ではとても飲めない。まあ、いいか、残った1本はHさんのお土産だ。
 この店は昼間の3時間だけの営業、女性部のおねえさんたちが交替でやっているらしい。接待には真心が籠もっている。一生懸命だ。率直で面白い。でも、注文が2品以上になると、忘れては困るとメモを取りに行く人がいる。注文が来ないので催促に行くと、忘れてたあ、アッハッハーと豪快に笑う人がいる。そんなかけ合い漫才のようなことをしているうちに、楽しくお酒は続き……。お酒がすすんだのには、写真のナズナのおひたしや胡麻和えのような自然溢れるつまみのおかげもあったかもしれない。あるいは、遠景の塩田平の景色のおかげもあったかもしれない。新幹線は全員爆睡だった。
 それにしても、今回の写真にはお地蔵さん、羅漢さん、石仏などが多い。
青木16青木17青木18

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青木村 −村おこし

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 朝、露天風呂にはいり、食事をしたあと、修那羅峠にあるという石仏群を見にHさんに連れて行ってもらった。江戸末期以来、石仏を奉納・寄進する人がつづき、800もの数に上るという。思ったよりも小さいもので、神仏混合、土俗信仰も混じるということらしい。
 そのあと、どうしようかということになって、堀内清さんに電話をすることにした。突然の申し出にもかかわらず、お会いしてくださるという。
 実は朝、自宅との電話の時に、家族がたまたま昨夜読んだ富士国際旅行社というツーリストの「いい旅いい仲間」という宣伝紙に、ちょうど青木村の記事が出ているという。読み上げてもらうと、青木村は江戸時代に百姓一揆が5回も起きたところで「義民の村」として知られ、全国義民サミットも開いたという。義民の伝統はその後も生きて、戦前長野県は全国で一番多くの満蒙開拓団を送り出したところだが、青木村は「戦争よりも自分たちの村づくりを」と一軒も出さなかった。現在も、人口は5000人だが合併をせず、自立した村おこしをめざしている。
 「信州青木村へ、おいでごわす(いらっしゃい)!」というその記事を書いているのは、農業を営む堀内清さんという方で、「昔からの養蚕農家を残し、山で炭焼きをし、水車で精米するそんな農業を残していこうと思います」というのである。
 ホテルの女将さんに聞くと、堀内さんのことはよくご存じで家も教えてくださった。それで電話をしたのである。
 堀内さんのお宅は、昔は庄屋だったというだけあって、大きくしっかりした作りである。養蚕農家特有の総二階建て。堀内さんは、「ほっとステイあおき」という「日帰り農村体験」の事業をしており、そのパンフレットを示して説明してくださる。「信州ええっこ村」という団体が主催しており、堀内さんが事務局を務めておられるようだ。「ええっこ」というのは、望月の「えいっこ」と同じ、「結い」を意味する言葉らしい。奥さんもいっしょに写真に収まり、娘さんがシャッターを押してくださった。

 お宅を辞す間際に、つかぬ事をといいつつ、東京の青年劇場の俳優のITさんを知っているかと伺ってみた。彼女は青木村出身だと聞いていたからだ。堀内さんはよくご存じでITさんのお父さんとはとても親しく村づくりの仲間らしい。あらためて世間は狭い。さっそく今度は青年劇場に電話してITさんと話すと、お父さんは農産物直売所に行っているかもしれない、というので帰り道に寄ってみた。そこにはおられず、直売所の人は「連絡を取りましょうか」と言ってくださるが今度の楽しみにすることにした。フキノトウ、セリ、野沢菜の新芽、など山菜をたくさん買った。
 Hさんは車を運転しながら、青木村のようなこういう長野県の農村風景がたまらなくなつかしい、と繰り返した。そういえば谷に囲まれた景色は望月町によく似ている。
 Kさんも、Uさんも全国のどこの地域にもこういうふうにがんばっている人がいると思うとありがたい、元気になると言っていた。ぼくもまた、青木村が今まで以上に近しく、懐かしい地域になった。
青木10青木11青木12

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2007年03月29日

青木村 −田沢温泉

青木1青木2青木3







 28,29日と長野の青木村へ行って来た。
 高校教育関係の友人たちとの旅行である。前にも書いたが、Kさんが定年退職して故郷の尼崎へ帰るのでその前に最後の旅行をというわけである。地元でホストをしてくれたのは共通の友人であるHさんだが、彼も今年退職を迎える。ついでにぼく自身も定年はまだだが、二人とは同い年で還暦だからお互いに祝いあおうというのである。年が少し先輩のUさんもつきあってくださった。
 Hさんが取ってくれた旅館は田沢温泉の富士屋ホテルである。
 午後3時過ぎに上田駅で集合し、途中、国宝である「大法寺三重塔」に寄った。境内には六地蔵さんが二組あり、羅漢さんも並んでいた。ここの羅漢さんはどういうわけか酒を飲んでいる羅漢さんが多く、親しみが持てた。
 田沢温泉は、島崎藤村の『千曲川のスケッチ』にも出てくる温泉である。ぼくは富士屋ホテルは2回目、木造三階建てのます屋旅館にも泊まったことがある。だから都合三回目ということになる。
 お湯は硫黄の匂いが強いがなめらかだ。少しぬるめだがゆっくり入るにはいい。
 長いつきあいの4人が揃うことができ、ぼくには贅沢な同行者たちで幸せだ。Kさんは乾杯の時に、この瞬間を忘れないと言っていた。みんな身体に故障を抱えているとはいえ、何せ酒豪揃いである。夜は更け、えんえんと宴はつづいたのである。夜は更け、夜は更け……。
青木4青木5青木6

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2007年03月28日

斑入りの馬酔木

アセビ1アセビ2 斑入りのアセビ。アセビは、アシビともアセボともいうらしい。

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2007年03月27日

「酒中日記」というタイトル2

 「酒中日記」は同名の吉行淳之介、芥川龍之介の作品があり、それに倣ったのだが、今度調べてみると、国木田独歩のものがおそらく最も古い。エッセイも含めると、高村薫、梶山季之、木山ショウヘイ、伊藤大輔と枚挙にいとまがない。

 「邑」は、鶴瀬駅西口の岩窟屋で、コピス応援団と。店の名前も、たたずまいも恐ろしげだが、料理はうまい。
 「金色堂」はI君におみやげでもらった。岩手・一関のお酒。グラスは琉球グラス、沖縄・オオシッタイのシャクシマールで手に入れた作家さんのもの。お酒は金箔入りだった。
邑金色堂1金色堂2

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山椒の芽

 西葛西の病院へ友人のお見舞い。何回目かの手術後1週間。早い全快を祈る。見舞いはなんと8人もの大勢になってしまった。友人もビックリしたに違いない。帰りにみんなで葛西駅近くの「こだわり屋」で一杯、…二杯、……。
 
 庭でも山椒の芽が出てきた。2本あるほかに、鉢植えの小さな木もあって、自宅で使うには十分だ。
sannsyou 1sannsyou2sannsyou 3

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2007年03月25日

おれらのリューダ祭

リューダ1リューダ2リューダ3







 鶴ヶ島市で第2回のリューダ祭があった。前回は、見ているあいだに地面が揺れ、それが新潟中越地震だった。今回は始まる前の朝、石川県を中心に地震があり、祭りのたび竜が起きるのかと心配した。
 今回も2年間もかかって作った舞台である。第1回を観察してきた者としては良く苦労がわかる。なにせ小学生が中心だから、練習などぼくがみていてもヒヤヒヤである。遊ぶ、喧嘩する、泣く、……とにかく集中しない。それがこれだけの表現をするのだからすごい。
 筋立ても前回とは大幅に変わった。演出の中川さんはそのときどきで創造的だ。

 ゼミの学生たちも活躍した。最後の写真がそれ。岡ゼミのTさんも長野の松本から参加。
リューダ4リューダ5リューダ6







リューダ7リューダ8リューダ9

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結婚式@栃木

佐野1佐野2佐野3







 ゼミの学生で、去年春に卒業したKさんの結婚式が栃木の佐野であった。
 Kさんはゼミの研究と活動をほんとに一生懸命にやった。ぼくのゼミは忙しい。中心は沖縄のフィールドワークだし、長野の望月町の米づくり(それは酒になるが)にも参加している。さらに、地元鶴ヶ島市の社会教育・文化活動にも協力している。
 Kさんは特に文化活動に熱心で、沖縄の中学生・高校生たちの「肝高の阿麻和利」に学んで自分たちで踊るようになったし、鶴ヶ島の「俺らのリューダ祭」では小学生の身体表現活動にとりくんだ。 
 4年生のときに故郷の山形で教育実習をしたが、阿麻和利とリューダを組み合わせた授業をして、ぼくはビデオで見たが子どもたちが実に生き生きと表現しており、そのビデオを撮った担任の先生は撮りながら感動して涙していたという。
 Kさんは底抜けに明るく飾らない人柄である。方言を隠さないしケータイまで訛る。
Kさん「予定通り24日に結婚式をやりますが、いがったら奥さんといっしょに来でもらいたいと思っでますが、大丈夫ですか」
ぼく「うんだ、行ぐ」
Kさん「いがったー!」という調子。
 そんなKさんがみんな好きだった。
 一昨年になるか、相手のNくんを紹介したいとぼくの家まで来てくれた。N君は好青年で安心した。
 二人は去年3月入籍。6月に長男のフウちゃんが生まれた。だから結婚式はフウちゃんを連れての式である。ゼミや大学時代の仲間も来て、ふたりの人柄が良く出たいい結婚式だった。お酒は、佐野市内の第一酒造の「開華」というお酒。
佐野4佐野5佐野6

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「天音」

amane 1amane 2 Yさんがぼくに山口平明『娘天音妻ヒロミ』(ジャパンマシニスト)を贈ってくれたのは、添えられた手紙によると1998年1月のことだから、早いものでもう9年も前のことである。
 天音さんは出産時のトラブルのため仮死状態で生まれ、重い脳障害が残った。母親のヒロミさんは介護のために小学校教諭を辞めて孤独な子育てをした。夫の平明さんと『天音通信』を発行してきた。ヒロミさんは通信に挿絵を描くようになり、銅版画を描くようになった。描くのはもっぱら天音さんである。

 今度大宮で展覧会をするから、という連絡がやはりYさんから来て、先週の一日、出かけた。版画はもちろんすごい。主催した野辺明子さんに促されるようにしてヒロミさんが天音さんのことを語った。
 ……脳はほとんど壊れてしまったけれど、呼吸や食事、排泄などをする生きる根本のことをする脳幹だけは残った。だから天音の姿はいのちがむき出しになっている。私たちは毎日いのちを抱きしめて生きていた、……

 ヒロミさんもときに、もしも障害がなかったらと考えてしまうことがあったという。夢に見たりする「もしもの天音」でなく、「ありのままの天音」を見ることができるようなるくだりの文章がある。
 ……それは、ありのままの天音がなんて美しいのだろうと気づいた頃からだったように思います。彼女の思春期の頃。
 もうその頃には、天音の身体は硬直し曲がりくねって、脳性マヒ特有に変形していたのです。それなのに、そんな変形した肢体が少女の美しさに輝いているのに、どきっとしました。いつまでも小さな赤ちゃんのような身体を通して、少女としてのいのちは、ちゃんと生きつづけ、溢れつづけているのでした。
 天音の身体に、いのちのほとばしりを感じた時から、彼女はたったひとりの天音として私をとらえてしまいました。
 もしも障害がなかったらなんて考えなくても、天音は、こんなにいのち輝く、美しい少女ではないか。
 生きるすべてを人に委ねていても、天音はいのちを燃やし、今を生きている、わが子をちょっと誇らしく思ったのです。
 天音は今17歳で、私のたったひとりの子どもです。(山口ヒロミ『天音』自然食通信社)

 天音さんは、2000年10月に19歳と4ヶ月のいのちを閉じた。


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2007年03月23日

送別会

みなみ  22日のお昼は、知人たちと「豆腐房」で食事。午後、新大久保の出版社へ行き最後の校正をして、夜は、麹町のエデュカスで雑誌の編集委員会。
 そのあとに、「鳥珍」で編集長Kさんの送別会。
 Kさんとは長いつきあいだ。ぼくがまだ大学院くらいだったか若かった頃、高校入試制度(総合選抜制)や職業教育の調査で兵庫・尼崎に出かけた折りなどにお会いしていた。12年前に教職員組合の本部で仕事をすることになり上京。以来、さまざまな場面で仕事をし、最もよく飲んだ間柄でもある。よく勉強される方で、教養人でもあった。数年前にガンに罹った。ぼくもすぐにお見舞いに行ったが、治療がうまくいったのかときどき入院治療をされながら、定年退職の今まで仕事を続けられた。その強力な意思と楽天性にはいつも驚かされ感心していた。
 3月は別れの季節である。

 写真はそれとは関係ない。というか、前日の「みなみ」さんのところで、Iさんが持っていたもの。今川夏如くんのおばあさんが合鴨農法で作った米で、今川君の友達が醸造した焼酎。ラベルの言葉がいい。

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雪柳とブン

ユキヤナギとブンユキヤナギ1 庭には雪柳が2株あるが、少し種類が違う。こちらは大きい花の方。ブンはほんとに年をとった。



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富貴草

富貴草1富貴草2 もう10年も前になろうか。群馬の割烹「久平」の庭から分けてもらったのが増えた。「吉祥草」と書いてキチジソウともいうそうな。いずれにしてもめでたい名前である。「草」と書くが、ほんとうは低木の類だとも解説されている。


 一夜明けて、卒業生からのメール。恥ずかしいし自慢する……のだが。

皆様今日はほんと〜にありがとうございました〜(^3^)/〜☆
ゼミに入って色んなこと知って、みんなと出会えた2年間はあたしの宝物です(^^)
先生の何もかも包み込んでくれる笑顔、優しさ大好きです♪
3年生、色紙やらお話やらマグカップやらありがとう♪
すっごいすっごい嬉しかったです!!特にマグカップ(*^_^*)
4年生のみんなやっぱり最高だね!また後日だけれども☆… Mさん

今日はホントにありがとうございました☆
ゼミが始まった時はやって行けるかすごく落ちてた時もありました。先生にも優しいお言葉をかけていただいたことを覚えています。しかし、今となってはゼミはすごく居心地のよい所になっていました♪
本当にアタシにとって大きな出会い、学びになりました。
とっても忙しくても、アタシのように聞きわけの悪い学生がいても、いつも大きな心と笑顔で接してくれた先生には感謝のしようもありません。
先生、あまり感じていただけなかったかもしれませんが‥大好きです(σ´∀`)σ笑☆
そして3年生、感動です!!本当に本当にありがとう♪
4年生‥言い切れないし、恥ずかしいからまた後日!!笑☆…
いちゃりばちょーでー♪♪               Tさん




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2007年03月22日

アオキの花

アオキ1アオキ2アオキ3







 玄関前の斑入りのアオキの花が咲き始めた。色のせいか、咲いたところも散ったところもきれいではないが、よく見るとこれがなかなか愛らしい。

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ゼミお別れ会

 この日はゼミのお別れ会。駅前の「くしきゅう」で。4年生はもちろん全員参加。料理もおいしく盛り上がった。メキシコ・ペルーの旅行から帰った3年のAさんは成田から直行してお祝い。ゼミ長のCさんの泣き笑い。
ゼミ1ゼミ2ゼミ3

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2007年03月21日

花ニラ

花ニラ0 駅から職場まで行くあいだに、遊歩道がある。ここはもともと谷津川という小さな川があったものを蓋をして道路を造ったもので、あまり嬉しくはないが、小さい子たちの遊び場や、高齢者の散歩道にはなっている。
 桜並木が両側にあり、薔薇がたくさん咲くが、今は花ニラがあちこちに咲いている。なかにはこんなに青みがかった花もある。

 鯛子ちゃんはほかの大学の学生だったが、卒論、就職など相談に乗ったり、地域の活動にも参加してくれたりしてもう長い。昨夜、鯛子ちゃん、その彼氏、鯛ちゃんのお父上の4人で、川越・くしよしで飲んだ。先日の婚約と結婚式の予定の報告ということである。娘のいないぼくとしては実の父親同様、少し面白くないのだが、彼氏は暴れん坊将軍のような名前で、それに実際もかっこいいのである。
花ニラ1花ニラ2花ニラ3

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卒業式

卒業式1卒業式2 19日は卒業式。学位授与式は有楽町・国際フォーラム。お祝いの気持ちを伝えようと、壇上列席者が式の終わりに卒業生に対して拍手を送ろうということになった。ぼくは自分の学部、学科の学生のいる2階席に向かって手を振った。かすむように遠い席から、手を振って応えてくれる集団がしっかりと見えた。
 いったん大学へ帰って一人ひとりに証書を渡したあと、神谷町の虎ノ門パストラルの祝う会へ。学生と教員がやるこういう会は、いまや2学科だけになってしまった。4年間を振り返って笑ったりしんみりしたりのとてもいい会だった。泣き笑いのMさん、掲載承諾済み。

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2007年03月19日

山中漆器と「田心」

田心  内田康夫『化生の海』の最後は石川県の山中温泉である。山中は山中漆器の産地で、漆器生産は輪島をしのいで日本で一番だそうである。ただ、生地は木ではなく、プラスチックが多いと紹介されている。
 池袋に出たついでにふらっと伝統工芸館によると、石川進さんという伝統工芸士さんのコーナーがあって、ご本人がいらっしゃった。もちろん木の生地を使う。お勧めのぐい飲みをひとつ買った。ケヤキで、表面の凹凸をそのまま生かしているという。
 酒は八戸の田心。最近、雑誌『サライ』は「桜と花見酒」の特集をしており、『dantyu』 は「日本酒と寿司」である。『田心』はそこで知った八戸の酒である。先日八戸に行ったときにすぐ手に入れた。

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富山

富山 高校教育についての研究会で、富山に日帰りで行って来た。富山では、中高一貫の学校をつくるなど高校の再編成がすすめられている一方で、統廃合が現実化しようとしている。学校の統廃合は、地域の再編成・自治体合併と連動しているが、富山県の市町村数が15になっていたというのには驚いた。シンポジウムでは大学生や、地域で運動をしているお母さんの発言が新鮮で、力があった。
 飛行機か列車か迷って、結局列車にしたのだが、帰りの車中の酒がうまいのは列車のいいところだ。押し寿司や鯛ちくわで飲む若鶴や銀嶺立山がうまい。

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最終講義

 17日。午前は民研の会議。午後から佐藤一子さんの最終講義とお祝いのパーティ。最終講義は通例のものと違い、講義のほかに、シンポジウムがあって、そこには佐藤さんにゆかりの各地の実践者が登壇した。学界の中心メンバーはもちろん、社会教育の実践や運動のそうそうたる人が参加しており、それが佐藤さんの研究者としての力量、ネットワークの力を示していた。ぼくは研究室の後輩として誇りに思う。パーティの同じテーブルでは、佐藤さんご本人と、北田さん、酒匂さんの大先輩、同世代の井上さん、後輩の三輪さん、豊田さん、望月町の吉川さんといっしょだった。埼玉からは石井さんなどおそらく一番多数が参加した。


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2007年03月17日

お見舞いと慰労と

池袋・メトロポリタンから  Oさんのお見舞いに川崎の病院に行ってきた。
 学生時代、Oさんにはずいぶんお世話になった。Oさんはセツルメント診療所の看護婦さんをしていた。子どもさんのなかったOさんご夫婦だが、姪のYちゃんを預かって育てることになり、その家庭教師を頼まれた。それはもちろんYちゃんのためにという思いだったろうが、幾分かは貧乏学生だった僕を援助しようという意味もあったのではないかとぼくは思っている。料理の得意なOさんはいつもおいしいごちそうを作ってくれたし(当時、ぼくは体重が今より14キロも少なかった)、大手機材メーカーのエンジニアだったご主人とお酒をいただき、泊めていただくようなこともあった。
 一昨年の暮れだったか、入院したときから、ぼくの写真を届けるようになった。枕元に置いて楽しんでもらいたいということだ。この日は白モクレンの写真を持っていった。「もう四季の写真がそろっている」と喜んでくれた。
 Oさんが入院している病院は、かつての製鉄工場やコンビナートに隣接するタフな地域であり、40年も前にセツルメント活動をしていた地域である。懐かしい地名がたくさんあった。
 Oさんは聞いていたよりはずいぶん元気に見えて、ほっと安心した。

 ご一緒したのは、恩師である故木下春雄さんの奥さんである。この方がいなければ今の僕はないといってもいいくらい、やはりお世話になった。
 お世話になったこうしたたくさんの方々に対してまだ十分な恩返しができないし、世の中に対しても同じで忸怩たる思いがする。

 麹町のエデュカスに寄っていくつか打ち合わせなどをした後、職場を定年退職なさる方の慰労会。写真は、会場のメトロポリタンホテル25階から見た暮れなずむ池袋周辺の風景。左手遠方はサンシャイン・ホテル。


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2007年03月16日

春もみじ

春モミジ 新芽の季節である。春もみじは、春の芽吹き時、赤い新芽が多いことから言われる。この写真は「もみじ」そのものだが。
 昨夜は遅くまで職場で仕事。
 今朝は東京で初雪。例年より三ヶ月遅いそうだ。埼玉でもチラホラ。このまま雪なしで冬が終わるのかと思っていたけれど。


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2007年03月15日

君子蘭開花

君子蘭開花 14日夜は民研・中等教育研究会。ほんとうに久しぶりにメンバーが会った。こんなに開催が伸びてしまったのは、何よりも、推進役になれなかったぼくの責任である。今の職場での仕事はたしかに忙しくなる一方だし、社会的な活動を縮小していかざるを得ないけれど、研究については妥協してはいけないとつくづくと思った。メンバーとの久しぶりの研究的な議論は懐かしいほどに刺激的だった。終わってからは、「瓢箪」で。玉コンニャクはまた最後のひと皿になってしまった。

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2007年03月13日

「輝く明日に向かって」

輝く明日に向かって アフリカ映画が続くが、「輝く明日に向かって」は南アフリカのアパルトヘイト(人種差別の隔離政策)と黒人に対する差別と弾圧を主題にしている。実話に基づくが、映画は重く怖い。最後はたしかに人々のたたかいは勝利し、ひとにぎりの白人による支配は終わるが、「輝く明日…」というタイトルは明るすぎる。
 アパルトヘイトの映画「遠い夜明け」「ワールドアパート」については、友人のS氏が最近そのブログで書いている。
 闘争の指導者だったネルソン・マンデラさんには、1990年の夏にスペインのマドリッドで会い握手もした。国際中等教育会議だった。マンデラ氏は27年間の獄中生活から解放された数ヶ月後であり、94年には大統領になった。

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『化生の海』

内田康夫人間と教育53 今度、新潮文庫に収められた内田康夫『化生の海』は、土人形が重要な役割を果たす。土人形は、北前船で各地に運ばれてつくられるようになった。だから日本海側に多い。小説では、北海道・余市町を起点に、松前、福井の橋立、山口県下関、福岡県博多と展開する。
 『人間と教育』53号が出た。表紙の写真は、桜。シンポの記録も載っている。『高校のひろば』63号も出た。こちらには、辻井喬さんのインタビューと映画評がある。

 昨日は朝から6つの会議・会合があった。今日は午前中、書類の整理やたまった原稿書き。など

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2007年03月12日

八戸

gokkotyuusykuyuuhi







 八戸の「八食センター」は巨大な広さと、すごい規模の食料品と食事処である。行く時に寄った。写真は、ゴッコという魚、愛嬌がある。
 3日目、最後の食事は駅ビルになった。お酒は、右のグラスが「関の井」と、左のガラス瓶は「菊駒」、いずれも地酒。関の井はむつ市の酒造、蔵へも行ったがなかなかの風格だった。菊駒は五戸のお酒。下北はどこもイカが自慢、手前は「バクライ」、コノワタとホヤ。右は、新幹線から見た夕陽。

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2007年03月11日

石油備蓄基地、弥栄その後

 『村が消えた』の「弥栄村」はどうなったか。弥栄の地名は残っている。再処理工場に隣接する従業員宿舎や石油備蓄基地になっている。たしかに『村は消えた』。弥栄牧場というのがあると聞いたが、時間もないので寄らなかった。
石油備蓄基地1石油備蓄基地2弥栄

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再処理工場

PRセンター1PRセンター2 六ヶ所村役場で村内の地図をもらい、原燃PRセンター、再処理工場と見て回った。センターに金をかけているのはもちろんだが、道路も立派だし、あちこちに工事中の所があって、「教育施設」「児童施設」「下水道施設」などの看板が立てられている。
 原子力関係の施設の周辺には、二重、三重に壁が張り巡らされているようで、沖縄の基地でもここまではと思わせられる気がした。再処理工場のゲートは道路からおくまったところにあるのだが、遠くからカメラを向けると、警備員たちが何か叫んで大きく×を出しており、こちらに飛んできそうだった。こういう厳重さが施設の怖さを表しているようで、空恐ろしくなった。
 六ヶ所村から三沢にかけては、自衛隊のかアメリカ軍のかわからないが、ジェット機が数機、猛烈な衝撃音を立ててタッチ・エンド・ゴウのような訓練を繰り返していた。遠景写真はPRセンターから撮ったものである。
原燃再処理工場1再処理工場2

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泊港

 現地のテレビでも、再処理工場問題のニュースを報道していた。
 帰りはまた六ヶ所村を通ることになる。今度は東海岸の東通村の方を通ることにした。このころになると、南下したせいかもしれないが、ようやく晴れてきた。海岸線はこんなにも美しい。途中、泊港があった。地図で探したが見つからなくてあきらめていたところ。ここは、六ヶ所村でも反対運動が一番強かったところであり、映画ではデモ隊と機動隊の衝突の画面もあった。魚が揚がったところで、若者たちが氷を詰めていた。魚はカレイやアンコウだった。町には昔の隆盛を彷彿とさせる立派な家もたくさん残っている。
テレビ泊港1泊港2







泊港3泊港4泊港5

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苫米地ヤス子さん

新聞記事苫米地さん  時間は前後する。
 ドキュメンタリー映画「六ヶ所村ラプソディ」でも登場した苫米地ヤス子さんについてはこのブログの2月11日の記事で触れたが、彼女は有機農業をしながら再処理工場に反対している。
 下北への出発前に地図を見ていると、八戸から下北へクルマで行くのには国道45号線から4号線に入って野辺地経由で行くことになるが、苫米地さんの田んぼは、その45号線と4号線のクロスするあたりにありそうだ。そこで急遽連絡してお会いしたい旨お願いした。
 苫米地さんは揚げたばかりのおからのドーナツをくださりながら、娘さんといっしょにご自分の田んぼを案内してくれた。「田んぼは、映画ではきれいだったかもしんないけど、今は何もないよ」と言いながら。
 今、苫米地さんは、県に対して放射能の検査をするよう要求しているのだという。調査は、生産者である自分たちから要求するのは勇気が要るけれど、消費者の立場からすれば必要なのだという。
 それから苫米地さんは、新聞にこういう投書を出した、と、写真のようなコピーをくれた。ほんとうに情熱的で行動的な人だ。新聞記事にも出てくる太田俊昭九州大学名誉教授については、激励のためにウチのお米を送りたいから住所を調べてくれとも言われた。苫米地さんにお会いできて幸せだった。

 埼玉に帰ったらN山氏からの印刷物が届けられており、そこには、六ヶ所の再処理工場建設についての行動を呼びかける埼玉・自由の森高校の卒業生永山泰久さんの文書がコピーされていた。
 彼は「手紙作戦」を提案している。

 …六ヶ所村ラプソディを見て、その「現実の実態」を知りました。そして、その痛くて悲しすぎる現実に、何かできることはないのか、……
 (手紙作戦という)今回のこのアクションを、一人でも多くの人に広げ、つながり、働くことで、一日でも早く、子どもたち、そして僕たち自身の未来が、ほんとうに安心感や信頼に足る、すばらしいものになることをせつに願います…

 この文面を見ると、自由の森で「六ヶ所村ラプソディ」の上映会をしたあと、彼は青森の現地まで行っているらしい。その行動力たるやすごい。


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2007年03月10日

「飢餓海峡」

 下北半島には「海峡」を冠した名称が多い。「海峡の宿」、「海峡路」という食事処、海峡ラーメン、海峡丼、……。もちろん津軽海峡を意味している。
 そういえば、水上勉さんの小説『飢餓海峡』の最初の舞台も下北半島だったのではないか?

 『飢餓海峡』は名作である。貧しさから生まれる人間の悲劇と、女の献身と哀しさを、愛惜の思いを込めて描くのは、水上勉さんのテーマである。『五番町夕霧楼』が金閣寺放火事件にヒントを得て作品化されたように、洞爺丸沈没事故という社会的な事件にヒントを得て『飢餓海峡』として作品化されたのも水上小説の特徴である。

 北海道の漁村で起きた強盗殺人放火事件の犯人、樽見京一郎は津軽海峡を渡って逃げ、娼婦杉戸八重に遭う、……。最初にたどり着いたのはどこだったか?

 そこで、東京の冬子さんに電話して、調べてもらった。そうしたら、仏ヶ浦に着き、森林鉄道を使って、大湊に来るというルートだという。(今回は、仏ヶ浦には行くことができず、大湊は市役所と駅などを訪ねた。)
 
 こちらに帰ってからも調べてみると、まさにその通りだった。内田吐夢さんが監督をした映画は、1965年の日本映画記者会の監督賞、主演男優賞(三国連太郎)、主演女優賞(左幸子)、助演男優賞(伴淳三郎)を独占した。そのロケも、下北で行われたという。高倉健も出ており、「ふるさと」の加藤嘉さんは八重の父親役で出ている。(『はまなす』第19号)
 映画では、八重が娼婦宿で切ってやった男の足の爪が重要な役割を果たすのだが、せつない。写真は、森林鉄道の跡。映画で使われた川内村のではなく、大畑付近だったか。それと、大湊駅。大畑線が廃止されて、今は本州の「てっぺんの駅」になった。
 八重のような神様のような女性像としては、遠藤周作『私が棄てた女』のミツがいて、こちらも下北出身ではなかったかと調べてみたら「川越」だった。
飢餓海峡森林鉄道大湊駅

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下北の雪

雪1雪2雪3 雪の写真は難しい、すごく。クリックして見てください。

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下北の人々

奥薬研1下風呂  薬研温泉は山の温泉である。古畑旅館は、館主が第18代目という最古の旅館。館主がまとめた「由来記」は大作で、大分の由布院のイメージを提案した本田静六博士の名前も出てくる。料理は山菜を中心に工夫されてうまい。焼き魚のヤマメも骨酒のイワナもご主人が前の川で釣ったそうで、大きさがまちまちなのがいい。仲居さん?は、観光客のいないこの時期は何も見るものはないですよ、どこへ行っても同じ景色です、荒れた海と曇り空と、と率直。
 距離的には、そこから遠くない下風呂温泉はあらゆる意味で薬研と対照的である。こちらは海の温泉街で、観光パンフでは島根の温泉津と比べられる。温泉も薬研の単純泉に対して、硫黄泉。カクチョウ・長谷旅館は一番古い旅館だそうで井上靖も泊まっている。魚を中心に料理は抜群。家族でやっておられると言うが、みなさん最高にいい方たちで、とくにご主人は無口だけれど、誠心誠意尽くしてくださるのが伝わってくる。
 下北の人はみんないい人で、途中立ち寄った太郎仁窯のご主人も、雪かきをしながら森林鉄道について話してくれた写真のおじいさんもどこまでもやさしい。お地蔵さんに対してもやさしい。家並もいいところがたくさんある。
おじいさんお地蔵さん家並

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紫のクロッカス

クロッカス紫1クロッカス紫2 紫のクロッカスが咲いた。9日は、日本高等学校教職員組合の定期大会。あいさつは原稿を書いて行った。「他者と社会に開かれる学習と学力」とでもなろうか。ぼくと同年齢のお二人の役員が退任される。あいさつでは、心からの慰労の気持ちも込めて。

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大間崎

弁天島 大間はNHK朝の連続ドラマ「私の太陽」の舞台になった。マグロの一本釣りではあまりに有名。それから、ぼくの行く「樽八」のママのふるさとでもある。左は、大間崎から見る弁天島。いくつかの港があるが、大間港では嵐になった。本州最北端の大間高校を探して写真に収めた。






かもめ船大間港







昆布大間にて大間高校

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2007年03月09日

下北半島

むつ湾恐山薬研渓流







 今年はこれまでのところ多忙を極めた。一日家にいることができたのは、休日を含めて多分一日くらい。もっとも、本務以外の地域活動や研究活動は自由な意思だから、忙しさは同情されないだろうが。でもいろいろと一段落して、休暇を取ることを自分に許した。 どこへ行くか、念願の(念願はたくさんあるが)下北半島にした。青森は沖縄との対比で、一番興味がある地域だが、特に下北については強い。『はまなす』は、下北の地域文化研究所と青森県国民教育研究所が発行する雑誌で、ずっと送ってもらって読んでいるということも興味の源泉のひとつである。(ただ、今回はそれをじっくり読んでいくゆとりがなかった。帰ってきた今、雑誌を手にして地団駄を踏んでいる)
 下北の自然を体感したい、文化や人々の生活に少しでも触れたい、できればうまい魚を食べ、温泉も入れればという思い。それに下北に行くには六ヶ所村を通る。『村が消えた』の弥栄村はどうなっているか、『六ヶ所村ラプソディ』の現場はどうなっているか、もこの目で確かめたい、そういう思いで出かけた。
 暖冬の今年だが、行ったその日から天候が急変した。急に寒くなった。出かける朝のテレビの天気予報では青森だけが雪のマークになっていたが、八戸に着いた時から真っ黒な雲が重くたれ込め、午後からはほんとうに降り出した。2日目、3日目と降りつづけ、時には視界ゼロになってしまうこともあった。クルマで走っていても、フロントガラスが凍り付くほど冷え込みもした。
 それに加えてすごかったのが風である。とくに海岸では立っていられないほどの風が吹く。本州最北端の大間岬では、その三つ、雪、風、冷え込みが最高潮で、顔がちぎれるかと思うほどだった。でもこれが下北の自然だ、ということを身をもって感じさせてくれたのかもしれない。写真上左、むつ湾。中、恐山。右、薬研渓流。下段左、奥薬研。中と右、風間浦あたり。
薬研風間浦下北の海

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2007年03月06日

クロッカス

クロッカス1クロッカス2 一斉に花たちが咲き始めるので忙しい。今日からしばらく出かけます。


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2007年03月05日

キブシ

キブシ1キブシ2キブシ3 キブシを見ると、今年も春が来たと思う。


masao55ota1 at 22:10|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

ジンチョウゲ

ジンチョウゲ1ジンチョウゲ2ジンチョウゲ3 前のジンチョウゲは枯れてしまい、跡継ぎのでまだ木が小さい。けれど香りはめっぽう強く馥郁たる香りを振りまいている。写真は昨日のものだが、今日はほとんど満開である。

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映画「ふるさと」

神山征二郎サイン大西氏記事 日曜日は、コピスみよしで映画「ふるさと」の上映会。10時からと1時からの2回上映で、どちらの会についてもアフターのトークショウを行った。監督の神山征二郎さん、写真家の大西暢夫さん、ぼくがコーディネーターを務めた。
 神山監督からは、この作品は25年近く前になるが、自分でも一番いいできばえのものであると思っていること、モスクワ映画祭で加藤嘉さんが主演男優賞をもらったが、ほんとうは作品賞でもあったこと(実際にはニカラグアの革命家を描いた作品が受賞)、主演の加藤嘉さんのエピソードなど面白い話をたくさん聞いた。ぼくは,
映画は家族の愛情を扱っていることといい、映像の美しさといい、中国のチャン・イー・モウの「山の郵便配達」を連想すると言ったら、監督はもっと強い自信を持っておられるようだった。

 大西さんは岐阜で育ったが、この映画を中学生の時に観て感激し、舞台になったダムに沈む村、徳山村に10数年間も通って写真を撮り続け、今も通っている。そしてそれを題材にした多くの本を出版した。それが写真家としての原点になっている。そういうきっかけをつくってくれた映画の監督である神山征二郎さんは憧れの人とでもある。そのあたりのいきさつについては、東京新聞でも記事になった。だからこのトークショウは、巡り合わせがすごい。
 
 ところで、大西さんは精神障害者の人たちを撮った写真集『ひとりひとりの人』(精神医学出版)を出してもいる。実はこの本を編集した鈴木庸さんは僕の長い友人でもある。今もひと月に一回は会うのだと大西さん。さっそく庸さんに電話をし、庸さんから大西さん宛にメールも入った。

 「かぶら家」で行われた打ち上げには、神山監督、大西さんも参加。おおいに盛り上がった。それにしても担当のI亀さん、S久さんは元気だ。

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梅満開

umemannkai 1梅満開2梅満開3 梅が満開。香りがむせかえるよう。

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柊ナンテン

柊ナンテン1柊ナンテン2柊ナンテン3 ご近所の柊ナンテンが咲き始めた。

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2007年03月04日

キラリ*ふじみ

華1華5華2







 Sさんが「観芸会」をたちあげた。その第1回公演、荒川ヒロ子さんの一人芝居「秋晴れ寺前風景」を観に、「キラリ*ふじみ」に行った。Sさんは以前「鳥千寄席」の与太郎役をやっていたが、この日はその席亭だった鳥千のママさん、お得意さんのH夫妻、Nさんらが客で来ていてさながら同窓会だった。芝居は、脚本も演技ももう一つという印象だった。
 キラリの隣の部屋では、華道展が開かれていて、K元園長さんが受付をしていたので、少しのぞいた。
華3華4秋晴れ寺前風景

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畑の草取り

ほうれんそう長葱下仁田ネギ 土曜日午前、久しぶりに家にいることができたので、畑の草取りをした。雪に覆われることはなかったけれど冬を越したホウレンソウはおいしい。長葱に土寄せ。下仁田ネギ。

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2007年03月03日

ひな祭り

内裏雛・クリック鶴岡人形ふくろう







 今日は3月3日のひな祭り。
 長野の「ひなの家」で手に入れた人形たち。左、内裏雛、どこのものかは不詳、顔立ちが現代的。中、鶴岡人形。明治期のものという。右、木彫りのフクロウ。これは、上田市の農民美術集団の茂木文雄さんという方の作品。山本鼎以来の農民美術の伝統を継ぐ。
 長野の母親には、誕生祝いも兼ねて(90歳になった)紙でできた人形(ひな祭りのメロディも出る)を、花を添えて送った。

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懇親会

懇親会 仕事のあと、職場の単位の懇親会。池袋・メトロポリタンホテル。今年で定年退職なさる方々の送別会も兼ねて。


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2007年03月02日

イェリネク「雲。家。」

雲。家。 夜、Port B/ポルトBの「雲。家。」の芝居を観た。「にしすがも創造社特設劇場」は廃校になった学校の体育館。原作は、2004年にノーベル賞を受賞したドイツの作家、エルフリーデ・イェエリネク。演じるのはわれらが?「暁子猫」。ぼくは彼女の音楽の舞台は行ったことがあるが、芝居は初めて。彼女の父親H尾さんの強いお誘いで行った。
 芝居は、ドイツの作品だし、もともと(多分)前衛的なので難解である。ドラマ性というか、ストーリーはないに等しいし、そもそもセリフは切れ切れで(詩的というのか)つなげて意味を読みとるのは困難。
 ただ、「私」−家−大地−国、というものの大切さ、「聖なるもの」を強調しているらしいことはわかる。それは、オーストリアードイツという文脈で理解しなければいけないのだろうが、今の日本の文脈では、小林よしのりの「自分−郷土−愛国」というパトリオティズムにもつながる。小林よしのりは、そういう見地から西部や小泉元首相をアメリカに追随する売国奴と批判することにもなる、ある意味での極右ということになる。また、そうまで言わなくとも、もう一つの文脈は、教育基本法「改悪」の「伝統」の重視などが連想されるのは明らかである。
 ただ、ぼくも「大地」「地域」を愛する。

 これはアフター・パーフォーマンス・トークで知ったのだが、ポルトBは(したがって暁子猫も)「高島平」を主題にした芝居もしているらしい。高島平は、今年の元旦の朝日新聞の連載「日本の分裂」の第1回の題材であるり、その後も登場しているある意味で現代日本の象徴である。ポルトBの芝居はおそらく「都市」の不毛、解体を主張しているのではないか。それは芝居の中では、「サンシャイン」として登場している。もっとも「高島平」については、ポルトB自身はボルフェスの演劇的空間を実現しようとしたのであり、「反都市」ないし「地域主義」というような社会的主張をしようとしたのではないというのだろうが。

 アフタートークには東京外国語大学の谷川道子さんも登場した。彼女はイェリネクの最も良い日本への紹介者であるらしい。彼女とぼくは大学で同級であり、川崎セツルでいっしょだった。ほとんど40年ぶりの再会だった。ついでに彼女は当時その大学の若い教員だったH尾さんの授業を受けてもいたらしい。写真は彼女のイェリネクの翻訳本。
K.耕也先生もいらっしゃっていた。


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「一白水成」

一白水成 「白」い「米」と「水」から作る「一」番旨い酒という意味であるらしい。秋田県南秋田郡五城目町、福禄壽酒造というおめでたい蔵のお酒。今月の楽酒会で最高の得点だったと、これは丸文さんの推薦。

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