2006年12月
2006年12月30日
2006年12月29日
ニラの実
年の瀬も押し詰まり、恒例の青年劇場の忘年会。ぼくは挨拶で、今年の重大事件として教育基本法改正について触れ、同時に防衛省が誕生したことに象徴されるように、これからは憲法9条が裸で一人立つことになり、その改正問題が焦点になるだろうということを話した。個人的には、健康診断で、体重、血圧、尿酸値が3点セットで法則的に向上し、医学的治療、運動、食事療法、あらゆることをしているが意志も弱いせいか効なく、整体治療を始めたらかえって腰を痛めたという情けない話もした。
若い人が多い新宿を歩くと通りでも駅のホームでも車中でも、迷彩服が多いことに愕然とする。聞くと、ファッションだとか安いとかいう答が返ってくるが、小さな子どもにまで着せている若い夫婦もいる。今日も車内でまわりに迷彩服が多く、包囲されているような気がして総毛立った。
写真は、ニラの実。
若い人が多い新宿を歩くと通りでも駅のホームでも車中でも、迷彩服が多いことに愕然とする。聞くと、ファッションだとか安いとかいう答が返ってくるが、小さな子どもにまで着せている若い夫婦もいる。今日も車内でまわりに迷彩服が多く、包囲されているような気がして総毛立った。
写真は、ニラの実。
「松子」と「メリーさん」
今年観た映画では「嫌われ松子の一生」と「ヨコハマメリー」が印象に残る。
「嫌われ松子の一生」。松子は、幼い頃、病弱な妹に愛情をかける父親の姿に、自分は愛されていないと思い込み、関心を持ってもらいたいと懸命に父親に尽くそうとする。しかし、不器用なため、その思いは父親に受け止めてもらえず、愛されていないという空白感は大きい。愛されたい、だからひたすら相手に尽くす、という松子の切実な行動の習性は、もはや性(サガ)と言ってもいいが、結果として裏切られる。
それは、誰に対しても、大人になり教師になっても、それに失敗してトルコ嬢やヤクザの愛人になっても同じで、ひたすら相手を愛し相手に尽くし続け、反対に相手から裏切られ暴力をふるわれ骨までしゃぶられつづける。最後は自分が愛した男に捨てられて、自暴自棄の生活を続け、ついには中学生に集団暴行を受けて死んでいく。
遠藤周作の『私の捨てた女』のミツにも似て、松子に聖母マリアを見る見方もあるようだ。
「ヨコハマメリー」は、実在のモデルもいるドキュメンタリーである。戦後直後からメリーさんは米軍の高級将校相手の娼婦として横浜の街に立ち続けた。老人になってからも全身白塗りで伊勢佐木町の街角に立ったという。映画は、謎に包まれたメリーさんの生涯を、親交があったり、関わりがあったりした人たちの証言で明らかにしていく。メリーさん、よく生きたね、と声をかけたくなるし、最後は少しだけホッともする。
松子もメリーさんも、社会の片隅で数奇な人生を送った。しかし、どちらもけなげに真剣に生きた。つらい人生にも意味があると思えるし、自分も生きていていいんだと安心を与えられる。
『高校のひろば』62号(12月発行)の「映画の部屋」には、「三井・終わらない炭坑の物語」と「フラガール」、いずれも炭坑にまつわる映画を紹介した。
「嫌われ松子の一生」。松子は、幼い頃、病弱な妹に愛情をかける父親の姿に、自分は愛されていないと思い込み、関心を持ってもらいたいと懸命に父親に尽くそうとする。しかし、不器用なため、その思いは父親に受け止めてもらえず、愛されていないという空白感は大きい。愛されたい、だからひたすら相手に尽くす、という松子の切実な行動の習性は、もはや性(サガ)と言ってもいいが、結果として裏切られる。
それは、誰に対しても、大人になり教師になっても、それに失敗してトルコ嬢やヤクザの愛人になっても同じで、ひたすら相手を愛し相手に尽くし続け、反対に相手から裏切られ暴力をふるわれ骨までしゃぶられつづける。最後は自分が愛した男に捨てられて、自暴自棄の生活を続け、ついには中学生に集団暴行を受けて死んでいく。
遠藤周作の『私の捨てた女』のミツにも似て、松子に聖母マリアを見る見方もあるようだ。
「ヨコハマメリー」は、実在のモデルもいるドキュメンタリーである。戦後直後からメリーさんは米軍の高級将校相手の娼婦として横浜の街に立ち続けた。老人になってからも全身白塗りで伊勢佐木町の街角に立ったという。映画は、謎に包まれたメリーさんの生涯を、親交があったり、関わりがあったりした人たちの証言で明らかにしていく。メリーさん、よく生きたね、と声をかけたくなるし、最後は少しだけホッともする。
松子もメリーさんも、社会の片隅で数奇な人生を送った。しかし、どちらもけなげに真剣に生きた。つらい人生にも意味があると思えるし、自分も生きていていいんだと安心を与えられる。
『高校のひろば』62号(12月発行)の「映画の部屋」には、「三井・終わらない炭坑の物語」と「フラガール」、いずれも炭坑にまつわる映画を紹介した。
2006年12月26日
臭覚と記憶力
犬の臭覚は人間の200倍とか、極端な話1万倍だとも聞いたことがある。先日そのことが話題になったとき、実は人間の臭覚はもともと犬と同じだが、人間の場合すぐに慣れるという適応性が高く、それは人間の優れた性質だという人がいた。
記憶でも同じことで、いったん別のところにしまっておいて、すぐ忘れるというのも新しい記憶に対応するための人間の優れた性質なのだそうだ。そうでないと、脳のキャパシティがあふれてしまう。ぼくも中学生時代、三省堂の英語辞書を全部暗記しようとしたが、289頁で止まってしまった。あのときに眼底写真を撮ったら、きっと右の眼には288頁、左の眼には289頁が写ったに違いない。
それに懲りて以来、ぼくは人間の優れた性質に依拠することにした。つまりすぐに忘れるということである。自慢する……わけだが、ぼくはこの点、優れている。もっと本音を言えば、ぼくは自分が天才ではないかと思うくらいだ。「いったん別のところにしまっておく」ということもしない。
早い話、忘れ物が多い。最近数日で言っても、ある日、コートとマフラーを事務室と教室に忘れ、その都度同僚と学生が届けてくれた。翌日、カード入れがないと思っていたら、麹町警察署遺失物係から呼び出しがあった。その翌日は、財布を忘れた。その翌日は、筆入れを職場のぼくの部屋に置き忘れ、昨日、タクシーを使って取りに行ってきた。忘れてもこれだけ戻ってくるのはありがたいが、戻ってきていないのは小銭入れと手袋である。おかげで脳が破裂することを免れてはいるが、探したり、取りに行くのにたくさんの時間やお金がかかるのには閉口している。
記憶でも同じことで、いったん別のところにしまっておいて、すぐ忘れるというのも新しい記憶に対応するための人間の優れた性質なのだそうだ。そうでないと、脳のキャパシティがあふれてしまう。ぼくも中学生時代、三省堂の英語辞書を全部暗記しようとしたが、289頁で止まってしまった。あのときに眼底写真を撮ったら、きっと右の眼には288頁、左の眼には289頁が写ったに違いない。
それに懲りて以来、ぼくは人間の優れた性質に依拠することにした。つまりすぐに忘れるということである。自慢する……わけだが、ぼくはこの点、優れている。もっと本音を言えば、ぼくは自分が天才ではないかと思うくらいだ。「いったん別のところにしまっておく」ということもしない。
早い話、忘れ物が多い。最近数日で言っても、ある日、コートとマフラーを事務室と教室に忘れ、その都度同僚と学生が届けてくれた。翌日、カード入れがないと思っていたら、麹町警察署遺失物係から呼び出しがあった。その翌日は、財布を忘れた。その翌日は、筆入れを職場のぼくの部屋に置き忘れ、昨日、タクシーを使って取りに行ってきた。忘れてもこれだけ戻ってくるのはありがたいが、戻ってきていないのは小銭入れと手袋である。おかげで脳が破裂することを免れてはいるが、探したり、取りに行くのにたくさんの時間やお金がかかるのには閉口している。
2006年12月25日
2006年12月24日
2006年12月22日
2006年12月21日
岸田今日子さん逝く
岸田今日子さんが亡くなった。76歳。あの茫洋とした、不思議なエロティシズムに満ちた演技が見られなくなるのは寂しい。劇団円の舞台では別役実さんの脚本が多く、これはぼくにはなかなか難しい世界だったが。
『人間と教育』の編集長の巻頭インタビューで登場してもらったことがある。彼女は、羽仁説子さんのつくった学校、自由学園の卒業生で、その経験について、それから教育について、話すことが面白いと、田中祐児さんに聞いたからである。最初事務所に連絡したが断られつづけ、自宅に電話して留守番の方に言伝るとあちらから電話があって実現した。
赤坂の岸田さんの自宅マンションへ伺った。そのときの色紙が写真である。(宛名はぼくの長男の名前) インタビューは後に『教育について』(労働旬報社)にも収録した。しばらく芝居のチケットを送ってくださったり、チラシは毎回どっさりと届いた。ご友人の吉行和子さんを紹介してもらって、雑誌に執筆してもらったこともある。2年ほど前、「きらりふじみ」で観たのが、ぼくには最後になった。
『人間と教育』の編集長の巻頭インタビューで登場してもらったことがある。彼女は、羽仁説子さんのつくった学校、自由学園の卒業生で、その経験について、それから教育について、話すことが面白いと、田中祐児さんに聞いたからである。最初事務所に連絡したが断られつづけ、自宅に電話して留守番の方に言伝るとあちらから電話があって実現した。
赤坂の岸田さんの自宅マンションへ伺った。そのときの色紙が写真である。(宛名はぼくの長男の名前) インタビューは後に『教育について』(労働旬報社)にも収録した。しばらく芝居のチケットを送ってくださったり、チラシは毎回どっさりと届いた。ご友人の吉行和子さんを紹介してもらって、雑誌に執筆してもらったこともある。2年ほど前、「きらりふじみ」で観たのが、ぼくには最後になった。
2006年12月20日
2006年12月19日
アテルイ(岩手・つづき)
3,4年前になろうか、雑誌『教育』で「地域とは何か」というテーマで連続インタビューを組み、赤坂憲雄さんと話したことがある。2回に分けて掲載された。そのなかで、赤坂さんは、東北の各地に残る坂上田村麻呂伝説に触れ、たとえば青森のねぶた祭りで祀られるのは坂上田村麻呂であるように、東北の人々が自分たちを蝦夷とさげすんで「征伐」に来た田村麻呂を神のように扱うのはおかしいという趣旨の話をされた。
朝廷の支配に従わない東北の人々を撃とうと、朝廷から派遣されて来た「征夷大将軍」坂上田村麻呂の側に立てば、それに抵抗したアテルイは、賊軍ということになる。
しかし、ここ20年来、まったく反対の立場、つまり地域の民衆の願いを担う英雄としてのアテルイの再評価がすすんだ。それは、赤坂さんたちのように、「いくつもの日本」という立場から歴史を再構成しようという学問的な試みと無関係ではない。ぼくも、後藤竜二『野心あらためず』や、高橋克彦『火怨』で、アテルイの物語を読んだ。わらび座や市川染め五郎も芝居にした。
そのアテルイの根拠地が、やはり水沢周辺である。「アテルイの里」という看板もあちこちに立っていた。
後藤新平生家の前にある武家屋敷を管理する職員の方に聞くと、アテルイについては、市の埋蔵文化財センターに行くといいと教えてくれた。そこは施設も実に立派でしかも無料、展示も面白かった。新平記念館に続いてたくさんの資料を買い込んだ。
写真はアテルイとは関係ない。奥州市周辺の民家。平野部の家には屋敷杜が多い。
きれいな風車がくるくると回っていて、発電した電球もついていた。
2006年12月18日
後藤新平、そして新一先生のこと
鹿児島のことはまた後で書くことにして、岩手に戻る。
高野長英の生地(今は碑だけが建つ。14日のブログ)から200メートルくらい離れて、同じ通りに面して後藤新平の生家がある。ちなみに後藤新平と同時代人で、海軍大臣を務め2.26事件で暗殺された斉藤実の生家は、高野の生地から反対方向に200メートルくらいのところにあり、4,500メートルくらいの「吉小路」というこの通りは、「偉人通り」とも呼ばれているらしい。
高野長英の縁戚でもあり、その死から程なく生まれたことから、後藤新平は、幼少の頃は「謀反人の子」と呼ばれいじめられたということだ。
須賀川の医学校に学び医者として出発したのも長英と同じで、25歳の若さで愛知県医学校の校長兼県立病院の院長になっている。
しかし、その後は政治に志し、挫折や紆余曲折を経つつ、内務省衛生局、台湾総督府民政長官、満鉄初代総裁、逓信大臣、外務大臣、そして東京市長、その後もボーイスカウト日本連盟の初代総裁、NHKの前身である東京放送局の初代総裁を歴任するという華やかな経歴をたどる。長英とは反対に権力の中枢を担い、「初代総裁」が多いように、日本の近代を開拓者として担った。
近年、全集が発行されたり、研究としても新しい照明が当てられており、たとえばぼくの分野でも「公衆衛生」や「社会事業」概念の創始者として研究の対象となったり、今のような赤いポストにしたのが後藤新平だというのはともかく、東京市長として関東大震災の後始末にあたった行政については近代的な都市政策者としての光が当てられてもいる。
鶴見俊輔、和子の両氏は、いわゆる外孫にあたる。
後藤新一さんは、新平の直系の孫であり、俊輔、和子氏のいとこということになる。
後藤先生は、かつて長野県の高校教師をしており、教職員組合の仕事もされていて、ぼくも教育研究集会の講演を依頼されて出かけたこともある。朴訥なお人柄で穏やかな風貌でいらしたが、日本の国家というものに対して対峙する強い信念の持ち主で、学校における君が代斉唱や日の丸掲揚にについては断固として反対し決して妥協しない人だった。後には環境問題に取り組んでおられたが、ここでもディープナチュラリストであられた。
先生と、そのことについて直接に話したことはないが、先生は後藤新平の孫であるという出自についてご自身の生き方をかけて抵抗しておられたようにもお見受けした。生涯独身を通され、退職後は伊豆の老人施設で過ごされ、数年前に亡くなられた。
2006年12月14日
岩手3 −学者・高野長英
ぼくは次回に述べる(予定)ように、後藤新平記念館にだけは行こうと思っていた。そしたら、カンノさんもスガワラさんも勧めるのは、高野長英記念館なのだ。そしてスガワラさんに会ったのも高野長英記念館なのだ。
ぼくは、高野長英については江戸後期の蘭学者で、蛮社の獄で幕府に捕まったというくらいの受験用のグレーな知識しかなかったが、記念館に行って彩色鮮やかな生きた人間像として認識し感得することができたように思う。
水沢藩の名家である本後藤家の出で、藩医である「高野家」に養子に出た。養父が杉田玄白などと交流があって蘭学の書籍などが家にあったため蘭学に親しみ、長崎のシーボルトの鳴滝塾で蘭学、医学を学ぶ。そのころの研究のテーマが面白い。植物学から鯨の研究など動物学、もちろん医学、とフランスの百科全書派を思わせるように広い。好奇心の固まりで、学問それ自体が好きという感じがあふれている。
江戸・麹町で開業してから渡辺崋山らと交遊し学問サークル「尚歯会」をつくる。ここではすでに単なる学問というより社会的な関心に貫かれる。幕府の鎖国政策に反対し、『戊申夢物語』を書いて開国を主張した。蛮社の獄で弾圧され、自首し投獄される。それから後は、脱獄と逃亡、潜伏の日々である。弟子が多かったという群馬の吾妻渓谷の中之条、川原湯、愛媛・宇和島など日本全国にわたる。もう少し後なら維新の志士になれたかもしれないが、早すぎた革命的知識人だった。
写真は記念館の前にある高橋碩一さんの文章を刻んだ碑である。もう1枚は、生地に立てられている記念碑。クリックしてください。文字が読めます。
ぼくは、高野長英については江戸後期の蘭学者で、蛮社の獄で幕府に捕まったというくらいの受験用のグレーな知識しかなかったが、記念館に行って彩色鮮やかな生きた人間像として認識し感得することができたように思う。
水沢藩の名家である本後藤家の出で、藩医である「高野家」に養子に出た。養父が杉田玄白などと交流があって蘭学の書籍などが家にあったため蘭学に親しみ、長崎のシーボルトの鳴滝塾で蘭学、医学を学ぶ。そのころの研究のテーマが面白い。植物学から鯨の研究など動物学、もちろん医学、とフランスの百科全書派を思わせるように広い。好奇心の固まりで、学問それ自体が好きという感じがあふれている。
江戸・麹町で開業してから渡辺崋山らと交遊し学問サークル「尚歯会」をつくる。ここではすでに単なる学問というより社会的な関心に貫かれる。幕府の鎖国政策に反対し、『戊申夢物語』を書いて開国を主張した。蛮社の獄で弾圧され、自首し投獄される。それから後は、脱獄と逃亡、潜伏の日々である。弟子が多かったという群馬の吾妻渓谷の中之条、川原湯、愛媛・宇和島など日本全国にわたる。もう少し後なら維新の志士になれたかもしれないが、早すぎた革命的知識人だった。
写真は記念館の前にある高橋碩一さんの文章を刻んだ碑である。もう1枚は、生地に立てられている記念碑。クリックしてください。文字が読めます。
2006年12月13日
『水曜の朝…』
火曜日は、東松山で仕事。そのあと、親戚の病気見舞いで群馬の高崎へ行って来た。
今日、水曜日は職場で仕事。卒論の最終的な相談、そして会議。写真は、駅に行く途中の道端で。
Nさんからメールで文章が送られてきた。ご了解を得て掲載させて頂く。
風邪のお加減はいかかでしょうか。
12月4日のブログ「新潟」に誘われて、『水曜の朝、午前三時』を手にとり読みました。
高度経済成長期を象徴する大阪万博という時代、お茶の水出で才色兼備の四条直美、これまた京大出で10カ国語が話せる長身の臼井という設定に、前半は頁をめくる気も失せ気味でしたが、鳴海が直美に臼井の秘密を暴く場面から一変。小説の後半は一気に読み進めました。
解説の池上氏は「オールド・ファッションド・ラブソング」と評しますが、私は恋愛小説を超えたものとして受け止めています。
同日の朝日新聞「TVこのセリフ」の文章が強く印象に残っていたせいかもしれません。
ー「陽子の心にも、氷点があったのです」ー
自分が時々、偽善者に思えることがある。善良な人間の顔をして世間に対し何かを書きながら、その実、心の中に人として許されざる憎悪の感情を抱え込んでいるからだ。
この黒い炎をどう鎮めたらいいのかと考えながら、北海道旭川市の三浦綾子記念文学館で「氷点」を手にしたのは、去年の今頃だった。愛する心を持つ同じ人間が抱く憎悪と復讐心のおぞましさに、自分の真実を見る思いだった。
人を憎む心からは何も生まれない。憎まれた方は心を凍らせ、そこに新たな憎しみを閉じ込める。人を、許せ。陽子のこの言葉を噛みしめながら1年。足踏みする心に、テレビが同じセリフをぶつけてきた。
「午前三時」ー光を全く失った漆黒の闇のなか、「善良な顔をして〜心の中に人として許されざる憎悪の感情を抱え込」み、己の内心の訴えと対峙する時刻なのかも。
サイモンとガーファンクルの「Wednesday Morning 3A.M.」の歌詞、「Why have I done it?」が胸に迫ってきます。
新潟古町は花街(色街)ー「新潟古町は歓楽街」では「雅趣」がない。
臼井は姜尚中、直美は「韋駄天オマサこと白州正子」が、私のイメージ。
「Wednesday Morning 3A.M.」を聞き目を閉じると、車窓の雪景色が浮かんできます。
「〆張鶴」なら「純」。新潟が恋しい。(新潟生まれです)
朝焼けが雲を染めるまでもう少し。
さぁ〜てもう一杯コーヒーを飲んだら、張りつめた朝の空気に触れて来ようかな。
明けない夜はない。
今日、先生はどのような1日を過ごされるのでしょうか。ブログ、楽しんでいます。
長くなって申し訳ありませんが、ちなみに「Naomi」という名前は聖書に出て来ます。(ルツのお母さんの名前だったでしょうか)自分でいうのも何ですが、好きです、自分の名前。
水曜の朝、午前三時(すでにまわりましたが)「Wednesday Morning 3A.M.」を聞きながら。
今日、水曜日は職場で仕事。卒論の最終的な相談、そして会議。写真は、駅に行く途中の道端で。
Nさんからメールで文章が送られてきた。ご了解を得て掲載させて頂く。
風邪のお加減はいかかでしょうか。
12月4日のブログ「新潟」に誘われて、『水曜の朝、午前三時』を手にとり読みました。
高度経済成長期を象徴する大阪万博という時代、お茶の水出で才色兼備の四条直美、これまた京大出で10カ国語が話せる長身の臼井という設定に、前半は頁をめくる気も失せ気味でしたが、鳴海が直美に臼井の秘密を暴く場面から一変。小説の後半は一気に読み進めました。
解説の池上氏は「オールド・ファッションド・ラブソング」と評しますが、私は恋愛小説を超えたものとして受け止めています。
同日の朝日新聞「TVこのセリフ」の文章が強く印象に残っていたせいかもしれません。
ー「陽子の心にも、氷点があったのです」ー
自分が時々、偽善者に思えることがある。善良な人間の顔をして世間に対し何かを書きながら、その実、心の中に人として許されざる憎悪の感情を抱え込んでいるからだ。
この黒い炎をどう鎮めたらいいのかと考えながら、北海道旭川市の三浦綾子記念文学館で「氷点」を手にしたのは、去年の今頃だった。愛する心を持つ同じ人間が抱く憎悪と復讐心のおぞましさに、自分の真実を見る思いだった。
人を憎む心からは何も生まれない。憎まれた方は心を凍らせ、そこに新たな憎しみを閉じ込める。人を、許せ。陽子のこの言葉を噛みしめながら1年。足踏みする心に、テレビが同じセリフをぶつけてきた。
「午前三時」ー光を全く失った漆黒の闇のなか、「善良な顔をして〜心の中に人として許されざる憎悪の感情を抱え込」み、己の内心の訴えと対峙する時刻なのかも。
サイモンとガーファンクルの「Wednesday Morning 3A.M.」の歌詞、「Why have I done it?」が胸に迫ってきます。
新潟古町は花街(色街)ー「新潟古町は歓楽街」では「雅趣」がない。
臼井は姜尚中、直美は「韋駄天オマサこと白州正子」が、私のイメージ。
「Wednesday Morning 3A.M.」を聞き目を閉じると、車窓の雪景色が浮かんできます。
「〆張鶴」なら「純」。新潟が恋しい。(新潟生まれです)
朝焼けが雲を染めるまでもう少し。
さぁ〜てもう一杯コーヒーを飲んだら、張りつめた朝の空気に触れて来ようかな。
明けない夜はない。
今日、先生はどのような1日を過ごされるのでしょうか。ブログ、楽しんでいます。
長くなって申し訳ありませんが、ちなみに「Naomi」という名前は聖書に出て来ます。(ルツのお母さんの名前だったでしょうか)自分でいうのも何ですが、好きです、自分の名前。
水曜の朝、午前三時(すでにまわりましたが)「Wednesday Morning 3A.M.」を聞きながら。
2006年12月12日
スガワラヤスマサ先生
スガワラヤスマサ(菅原恭正)さんは、ぼくが深く尊敬する小学校教師である。あえてそうしておられるカタカナ名の方が有名である。岩手県の衣川(現在の奥州市)に住んでおられる。お年は、と調べてみると、なんと今年80歳になられた。
ぼくが先生のことを知ったのは、1970年の教育科学研究会の大会である。この年は、東北民教連、技教研、全進研と合同で、宮城県鳴子温泉で開かれた。ぼくが教科研の大会に参加した最初でもある。この大会ではなかったかもしれないし、もしかしたらビデオかもしれないが、菅原さんの指導した獅子踊りの民舞を子どもたちが踊るのを見たことがあるような気もする。
後に(1990年)、ちょうどぼくが教科研の事務局長を務めていた頃に出版された『天飛ぶ鳥が羽をのすよに』は教科研賞に選ばれた。そこでまとめられたように、先生の実践は太鼓、民舞、詩など地域の文化に深く根ざしたものだった。つい最近まで教科研の全国委員も務めてくださった。
『子育てごっこ』で直木賞を受賞した三好京三さんの小説『俺は先生』のモデルは、菅原さんである。
本を出された頃に脳梗塞で倒れたが、みごとに恢復し、年賀状などでは「年金者9条の会」をつくったとか元気な報告がつづき、2ヶ月ほど前だったかには、『世評寸評・とんがらし』と『ある軍国少年の軌跡』を送ってくださった。 後者は、教育基本法が「改正」されようとしているこの重大な時期に、「年を取ったと言っても、あなたは大田堯先生より、吉田六太郎先生より若いでしょう」と奥様に叱咤され(このあたりは、ウチと似ている)7年ぶりに講演を始めたという、その記録である。
岩手に来たのだから、菅原さんにお会いしたいとは思ったけれどご健康の様子もわからないので、遠慮していた。そうしたら前夜一関で飲んだカンノさんが連絡を取ってくださり、翌朝、カンノさんからと菅原先生ご本人から電話がかかってきた。リハビリが終わったところだとおっしゃる。先生をお待たせするのもはばかられていったんはあきらめたのだが、せっかく岩手まで来たのだからと思いが募り、ご無理を言って、お会いすることができた。先生は実年齢よりはるかにお若く、ご病気のことなどまったく感じさせないお元気ぶりだった。クルマもさっそうと乗り回しておられ、次に行きたいと思っていた水沢公民館までの案内までもしてくださった。菅原先生は超有名だし、お顔を見たい方もおるやもしれぬので写真を載せさせて頂く。
ぼくが先生のことを知ったのは、1970年の教育科学研究会の大会である。この年は、東北民教連、技教研、全進研と合同で、宮城県鳴子温泉で開かれた。ぼくが教科研の大会に参加した最初でもある。この大会ではなかったかもしれないし、もしかしたらビデオかもしれないが、菅原さんの指導した獅子踊りの民舞を子どもたちが踊るのを見たことがあるような気もする。
後に(1990年)、ちょうどぼくが教科研の事務局長を務めていた頃に出版された『天飛ぶ鳥が羽をのすよに』は教科研賞に選ばれた。そこでまとめられたように、先生の実践は太鼓、民舞、詩など地域の文化に深く根ざしたものだった。つい最近まで教科研の全国委員も務めてくださった。
『子育てごっこ』で直木賞を受賞した三好京三さんの小説『俺は先生』のモデルは、菅原さんである。
本を出された頃に脳梗塞で倒れたが、みごとに恢復し、年賀状などでは「年金者9条の会」をつくったとか元気な報告がつづき、2ヶ月ほど前だったかには、『世評寸評・とんがらし』と『ある軍国少年の軌跡』を送ってくださった。 後者は、教育基本法が「改正」されようとしているこの重大な時期に、「年を取ったと言っても、あなたは大田堯先生より、吉田六太郎先生より若いでしょう」と奥様に叱咤され(このあたりは、ウチと似ている)7年ぶりに講演を始めたという、その記録である。
岩手に来たのだから、菅原さんにお会いしたいとは思ったけれどご健康の様子もわからないので、遠慮していた。そうしたら前夜一関で飲んだカンノさんが連絡を取ってくださり、翌朝、カンノさんからと菅原先生ご本人から電話がかかってきた。リハビリが終わったところだとおっしゃる。先生をお待たせするのもはばかられていったんはあきらめたのだが、せっかく岩手まで来たのだからと思いが募り、ご無理を言って、お会いすることができた。先生は実年齢よりはるかにお若く、ご病気のことなどまったく感じさせないお元気ぶりだった。クルマもさっそうと乗り回しておられ、次に行きたいと思っていた水沢公民館までの案内までもしてくださった。菅原先生は超有名だし、お顔を見たい方もおるやもしれぬので写真を載せさせて頂く。
2006年12月11日
風邪
今日、職場で、ぼくが風邪をひいたといい、つい研究室の椅子で目をつぶって休んでいたら、学生がリポビ○○とかいう栄養ドリンクと、豚汁のカップを買ってきてくれた。うれしかった。飲んで元気になって長い会議の司会をしたが、終わるとさすがに疲れた。その後、事務室に行ったら、またまたリポビ○○を、今度は職員の同僚からもらった。ありがたかった。いくつか仕事をした後に、クルマで駅に迎えに出てくれた女房が、ビック何とかいう飴をなめたかと聞く。そう言えば朝すすめられていた。まだだというと、あれはのどにもいいし、鼻がすっきりするし風邪にいいわよという。これだけすすめるのは、毒が入っているかもしれない。そう女房にいうと、アハハばれたかと笑っている。昨日よりも風邪声が抜けたと言っている。
2006年12月10日
岩手・一関
岩手・一関へ行って来た。県教育委員会が、一関に県立中学校を設立して、一関高校とつなげて県で初めての併設型中等学校をつくることを計画中である。一関高校は地域の随一の進学校なのだが、ますますエリート校化するというのが、推進の理由でもあるし、反対の理由でもある。その意味や予想される事態、対処について考えるという研究会が開かれて参加してきた。そもそもこの法律ができる1998年には、ぼくは参議院の文教委員会で参考人として証言し、批判的な立場から発言した。しかし、その後しっかり追跡調査はしておらず、その補充という意味もあった。
それ自体の研究の中味はとりあえず措いて。ぼくの発言中に、過去にぼくの大学の岩手の卒業生の名前を出して、どなたか知っておられる人はいないかと聞いたら、みんな笑っていたが、会が終わったら、私が教えました、同僚でした、という方が来られて嬉しかった。
今回は、それに加えてせっかく岩手まで行くので、ついでにいくつか行きたいところもあった。少し休みたい気持ちもあった。でも風邪をひいて帰ってきた。行く前夜に原稿書きの半徹夜をしたせいか、最高気温2度という寒さのせいか、ホテルの部屋の空気の乾燥のせいか、露天風呂に入る度に降っていた雪のせいか。
報告はおいおいと。
それ自体の研究の中味はとりあえず措いて。ぼくの発言中に、過去にぼくの大学の岩手の卒業生の名前を出して、どなたか知っておられる人はいないかと聞いたら、みんな笑っていたが、会が終わったら、私が教えました、同僚でした、という方が来られて嬉しかった。
今回は、それに加えてせっかく岩手まで行くので、ついでにいくつか行きたいところもあった。少し休みたい気持ちもあった。でも風邪をひいて帰ってきた。行く前夜に原稿書きの半徹夜をしたせいか、最高気温2度という寒さのせいか、ホテルの部屋の空気の乾燥のせいか、露天風呂に入る度に降っていた雪のせいか。
報告はおいおいと。
2006年12月07日
クリスマス2 「ホーッ、ホーッ、ホーッ」
先日のクリスマス会(というか忘年会)のときのこと。ぼくが知るかぎりでは、サンタクロースはフィンランドに住んでいるということになっている。同席のZさんのパートナーはフィンランド人で(ミカちゃんだか、マキちゃんという)、自然とクリスマスの話になり、フィンランドではサンタクロースが「ホーッ、ホーッ、ホーッ」と言いながらほんとに家庭に来るのだということを聞いた。あとで調べたら公認サンタクロースまでいるらしい。
「ホーッ、ホーッ、ホーッ」で思い出したことがある。20数年前、ぼくがイギリスに留学していたときのことである。留学は家族も一緒で、3人の子どもはそれぞれ事情があって別の小学校に入学していたのだが、次男の小学校のクリスマスの学芸会?に夫婦で行った。次男のクラスの劇では、子どもたちがあれこれ演った最後に次男がサンタクロースの衣装で出てきて、「ホーッ、ホーッ、ホーッ、メリークリスマス!」と言って劇が終わった。
何で日本人の子どもが主役級の役をやったのかについては、当時関係者の間で激しい論争があって、ぼくは、ぼくに似て顔もいい次男が主役に選ばれたのは当然だと言い、女房は登場時間が少なくセリフが少ないから割り当てられたのだと主張した。真実は歴史家の検証に任せるしかない。
ところで、ここから後は信じてもらうしかないのだが、「ホーッ、ホーッ、ホーッ」というのはまさしくサンタクロース語なのである(『マンスリーとうぶ』2006年12月号、パラダイス山本さんの記事)。そしてぜひ信じてもらいたいのだが、ぼくは日本語は下手だが、サンタクロース語は得意なのである。たとえばぼくが女房に叱られているときに、ぼくは「ホハ、ホヘ、ホホ、ホヒ、ホフ。ホホ、ホヒ、ホヘ。ホフ、ホン、ホーッ、ホホ、ホーッ、ホホホ」(ぼくは君を愛している。信じてくれ。さもなければぼくは死ぬ)と言うと、サンタクロース語がわからない女房は、またかという顔をして、「なにを馬鹿なことをいってるの」と言い、ぼくは小さい声で「フヘ、フホ、フフ」(くそったれ)とつぶやくと、女房はぼくが「ごめんなさい」と言ったと思って矛を収めるのである。
「ホーッ、ホーッ、ホーッ」で思い出したことがある。20数年前、ぼくがイギリスに留学していたときのことである。留学は家族も一緒で、3人の子どもはそれぞれ事情があって別の小学校に入学していたのだが、次男の小学校のクリスマスの学芸会?に夫婦で行った。次男のクラスの劇では、子どもたちがあれこれ演った最後に次男がサンタクロースの衣装で出てきて、「ホーッ、ホーッ、ホーッ、メリークリスマス!」と言って劇が終わった。
何で日本人の子どもが主役級の役をやったのかについては、当時関係者の間で激しい論争があって、ぼくは、ぼくに似て顔もいい次男が主役に選ばれたのは当然だと言い、女房は登場時間が少なくセリフが少ないから割り当てられたのだと主張した。真実は歴史家の検証に任せるしかない。
ところで、ここから後は信じてもらうしかないのだが、「ホーッ、ホーッ、ホーッ」というのはまさしくサンタクロース語なのである(『マンスリーとうぶ』2006年12月号、パラダイス山本さんの記事)。そしてぜひ信じてもらいたいのだが、ぼくは日本語は下手だが、サンタクロース語は得意なのである。たとえばぼくが女房に叱られているときに、ぼくは「ホハ、ホヘ、ホホ、ホヒ、ホフ。ホホ、ホヒ、ホヘ。ホフ、ホン、ホーッ、ホホ、ホーッ、ホホホ」(ぼくは君を愛している。信じてくれ。さもなければぼくは死ぬ)と言うと、サンタクロース語がわからない女房は、またかという顔をして、「なにを馬鹿なことをいってるの」と言い、ぼくは小さい声で「フヘ、フホ、フフ」(くそったれ)とつぶやくと、女房はぼくが「ごめんなさい」と言ったと思って矛を収めるのである。
ヒューマンチェーン
今日は職場で事務などの仕事。いそがしくきつかった。夜は、教育基本法「改正」に反対するために国会へ。参議院でも強行採決されるかもしれないという恐れから。そうしたらヒューマンチェーンを指揮しているYさんに会って、ふくしまみずほさんの後の時間が15分空いているので、挨拶しろと言う。もちろん早々に逃げ出した。前回に続きまたまた目を瞠る2人にあって写真を撮った。今見ると、背後には目をつぶりたい人も約2名写っている。これはクリックしても大きくならない。もう1枚は安倍首相に扮したコント・ニューズぺーパー。風刺の効いた彼の挨拶にはおおいに笑った。こちらは大きくなる。
ヒューマンチェーンが始まって、ふと隣を見ると、米田佐代子さんだった。米田さんは、今度、長野県上田市菅平に、平塚らいてう記念館を建設した。でも、冬になると、水が凍って住めないので、真田町の園田というところにアパートまで借りたと笑っていた。
そのあと、麹町で、高校教育研究委員会。本の編集の最終段階。初めて参加の若い研究者であるNさん、Aさんをふくめて大勢の出席があり、久しぶりに活気があふれた。そのあとはやっぱり瓢箪。最後は、兵庫の津川さん、Kさんと飲んだ。
ヒューマンチェーンが始まって、ふと隣を見ると、米田佐代子さんだった。米田さんは、今度、長野県上田市菅平に、平塚らいてう記念館を建設した。でも、冬になると、水が凍って住めないので、真田町の園田というところにアパートまで借りたと笑っていた。
そのあと、麹町で、高校教育研究委員会。本の編集の最終段階。初めて参加の若い研究者であるNさん、Aさんをふくめて大勢の出席があり、久しぶりに活気があふれた。そのあとはやっぱり瓢箪。最後は、兵庫の津川さん、Kさんと飲んだ。
2006年12月06日
2006年12月05日
2006年12月04日
新潟
日帰りで新潟へ行って来た。県が高校の通学区を廃止して全県一学区とすることについての意見を求められてのことである。新幹線がトンネルを抜けると、そこは雪国だった。
車中、蓮見圭一『水曜の朝、午前三時』(新潮文庫)を読んだ。主人公で、翻訳家で詩人でもある四条直美が1992年秋、脳腫瘍のため亡くなった。享年45歳。その彼女がニューヨクにいる娘に向けて自分のメッセージを4巻のテープに吹き込んで送った。
小説は、それを起こした文章、という形式を採っている。
舞台は1970年の大阪万博。お茶の水大学を出たばかりの美貌と才能を兼ね備え、しかもそのことを自ら知り自負も持っていた直美は、親の反対を押し切って万博のホステスをすることになる。ホステスたちの憧れは、京大出身で、身長が高く、難なく10の言語をしゃべることができるという臼井である。直美は臼井と恋に落ちる…
こう書くと、何とも甘ったるく類型的な恋愛小説だが、そう思わせないような端正な文体と、解説の池上冬樹によれば「いい小説」で「オールド・ファッションド・ラブソング」なのだ。それに後半は、まったく正反対の厳しい現実の世界になる。小説にこれ以上立ち入らないが、最後は「新潟市古町」という歓楽街だ。
読み終わったとき、ちょうど新潟駅に着いた。
車中、蓮見圭一『水曜の朝、午前三時』(新潮文庫)を読んだ。主人公で、翻訳家で詩人でもある四条直美が1992年秋、脳腫瘍のため亡くなった。享年45歳。その彼女がニューヨクにいる娘に向けて自分のメッセージを4巻のテープに吹き込んで送った。
小説は、それを起こした文章、という形式を採っている。
舞台は1970年の大阪万博。お茶の水大学を出たばかりの美貌と才能を兼ね備え、しかもそのことを自ら知り自負も持っていた直美は、親の反対を押し切って万博のホステスをすることになる。ホステスたちの憧れは、京大出身で、身長が高く、難なく10の言語をしゃべることができるという臼井である。直美は臼井と恋に落ちる…
こう書くと、何とも甘ったるく類型的な恋愛小説だが、そう思わせないような端正な文体と、解説の池上冬樹によれば「いい小説」で「オールド・ファッションド・ラブソング」なのだ。それに後半は、まったく正反対の厳しい現実の世界になる。小説にこれ以上立ち入らないが、最後は「新潟市古町」という歓楽街だ。
読み終わったとき、ちょうど新潟駅に着いた。
2006年12月01日
泡盛「ジュゴンの里」
目黒彰さんが2本の泡盛を送ってくれた。木の箱には「泡盛サミットin名護・山原2005記念ボトル」と印刷されている。「ジュゴンの里」の東恩納琢磨さんたちが、2005年10月29日に大浦湾の辺野古の海に沈めておいたのを1年経った今年の11月10日に引き上げて、予約しておいた目黒さんに送ってくれたのだ。こういう智恵は、「山原島酒の会」の島袋正敏さんあたりからに違いない。
そして泡盛は辺野古の海の底で人間に代わって、基地建設反対の座り込みをしていたのだ。
目黒さんは2本注文しておいたのだが、飲んでみると実にウマイ、ついては1本をぼくに送るからそのかわり第2陣でぼくが注文しておいた分を後で分けろ、というのである。そして沈めなかった普通の「ジュゴンの里」のものと比べてみよというので、右の瓶も送ってくれた。
さっそく飲んでみると、これがものすごくウマイのだ。雑味が消えて、まろやかですっきり、もう上等の古酒の領域なのだ。驚いた。普通の「ジュゴンの里」は一緒には飲む気にもなれない。
でもどうしてこうなるのか?海に沈めるときには、海水が入ったり金属の蓋が腐らないように、瓶の蓋から首にかけてはパラフィンで固めてある。ラベルのところも同様。後は瓶のガラスである。にもかかわらずどうして1年でこんなにうまくなるのか。不思議の一語である。
1月に届くはずのぼくの泡盛も楽しみである。
そして泡盛は辺野古の海の底で人間に代わって、基地建設反対の座り込みをしていたのだ。
目黒さんは2本注文しておいたのだが、飲んでみると実にウマイ、ついては1本をぼくに送るからそのかわり第2陣でぼくが注文しておいた分を後で分けろ、というのである。そして沈めなかった普通の「ジュゴンの里」のものと比べてみよというので、右の瓶も送ってくれた。
さっそく飲んでみると、これがものすごくウマイのだ。雑味が消えて、まろやかですっきり、もう上等の古酒の領域なのだ。驚いた。普通の「ジュゴンの里」は一緒には飲む気にもなれない。
でもどうしてこうなるのか?海に沈めるときには、海水が入ったり金属の蓋が腐らないように、瓶の蓋から首にかけてはパラフィンで固めてある。ラベルのところも同様。後は瓶のガラスである。にもかかわらずどうして1年でこんなにうまくなるのか。不思議の一語である。
1月に届くはずのぼくの泡盛も楽しみである。