2006年10月
2006年10月29日
「族譜」
昨日は、午前中会議のつもりで麹町まで出かけたが、会議室は暗くて誰もいず、事務局のMさんに電話すると、来週に延期したじゃないですか、という話。そうだった、でも予定表から削除するのを忘れていた。
いったん家に帰り、夕方新宿でKさんと仕事の打ち合わせ。その後、紀伊国屋サザンシアターで青年劇場の「族譜」を観た。梶山季之さんの原作に、ジェームズ・三木さんが脚本を書いたもの。戦前戦中に、「内鮮一体」「一億一心」という名目で朝鮮の人々が「自主的に日本名に改名すること」を強いられた「創氏改名」問題を芝居にしたものである。
畑の向こうに白い花が見えた。行ってみると、巨大なミョウガのようでもあり、南国の芭蕉のようでもある。人間の背丈ほどもある。やっぱりミョウガに近いか。花はきれいだ。
いったん家に帰り、夕方新宿でKさんと仕事の打ち合わせ。その後、紀伊国屋サザンシアターで青年劇場の「族譜」を観た。梶山季之さんの原作に、ジェームズ・三木さんが脚本を書いたもの。戦前戦中に、「内鮮一体」「一億一心」という名目で朝鮮の人々が「自主的に日本名に改名すること」を強いられた「創氏改名」問題を芝居にしたものである。
畑の向こうに白い花が見えた。行ってみると、巨大なミョウガのようでもあり、南国の芭蕉のようでもある。人間の背丈ほどもある。やっぱりミョウガに近いか。花はきれいだ。
2006年10月27日
おやきの平家
長野と埼玉をクルマで往復するときに、長野と上田の間を高速道ではなく、菅平経由で行くことがある。時間さえあれば、そのほうが景色も気分もいいからだ。
長野から菅平に向かい、仙仁温泉の手前の道沿いに、地元の物産や野菜などを売っている店があって、必ず寄ることにしている。地元の人が山に入って採ってきたものを持ち込んで売っているようで、いつも地元の人が集まってお茶を飲んでいる。春は山菜、秋はキノコなど珍しいものが多く、一人で切り盛りしているおばちゃんが気っぷがよくて、安い。
同じ建物の半分は、おやきの店で「おやきの平家」という。「平家」と書いて「ていじや」と読ませる。こちらもHさんというおばさんが一人でやっているのだが、父親が戸隠でやっていた店の屋号を継いで、ここに開いたのだという。
朝、電話で、野蒜のおやきを中心に頼んでおいて、埼玉へ帰る午後に取りに寄った。おやきは素朴でおいしい。ここにはアミという犬がいていつも遊んでくれる。店の前に、ホトトギスと青い小さな花が咲いていた。青い方は、名前はわからないが、戸隠から持ってきたという。
長野から菅平に向かい、仙仁温泉の手前の道沿いに、地元の物産や野菜などを売っている店があって、必ず寄ることにしている。地元の人が山に入って採ってきたものを持ち込んで売っているようで、いつも地元の人が集まってお茶を飲んでいる。春は山菜、秋はキノコなど珍しいものが多く、一人で切り盛りしているおばちゃんが気っぷがよくて、安い。
同じ建物の半分は、おやきの店で「おやきの平家」という。「平家」と書いて「ていじや」と読ませる。こちらもHさんというおばさんが一人でやっているのだが、父親が戸隠でやっていた店の屋号を継いで、ここに開いたのだという。
朝、電話で、野蒜のおやきを中心に頼んでおいて、埼玉へ帰る午後に取りに寄った。おやきは素朴でおいしい。ここにはアミという犬がいていつも遊んでくれる。店の前に、ホトトギスと青い小さな花が咲いていた。青い方は、名前はわからないが、戸隠から持ってきたという。
2006年10月26日
2006年10月24日
2006年10月23日
2006年10月21日
鳥千寄席
鳥千は、富士見市鶴瀬にある割烹居酒屋である。
富士見市は、ほぼ30年前、社会教育調査をしたり、関係の審議会の仕事をしたり、学生たちの実習のお世話をいただいたりして、要するにぼくにとって研究のフィールドでもあり、実践の場でもあった。
そのなかで鶴瀬西は、高度成長期につくられた団地を中心に最も早く都市化した地域で、自治会を中心にして地域の文化運動や自治的な運動が盛んで、公民館はその中心だった。そして、それと同じくらい鳥千は人々の交流の場であり、地域づくりの拠点だった。公民館の仕事を終えて職員や市民の人とひきつづき議論をしたり、くつろいだりする居場所だったし、ただ飲みに行っても、そこには知り合いの誰彼がいるというたまり場でもあった。
だからぼくは鳥千を「夜の公民館」と命名したのだった。
鳥千は、10年前から「鳥千寄席」を開いてきた。ママさんが席亭で、元社会教育職員の東海林さんが与太郎の役を買って出て、何かと切り盛りしてくださったようである。今年の八月に箱根で開かれた全国社会教育研究集会では、ママさんも行って地域の文化活動として寄席のとりくみについて報告してきたそうである。
ところがその鳥千が12月10日で閉店するという。多くの人にとって青天の霹靂である。当然、鳥千寄席もしまわざるを得ない。1年に2回開いてきたので、今回の21回が最後になるという。どういうわけか、ぼくは寄席には出たことがないのだが、最後ということもあってか細川夫(おっと)さんが誘ってくれた。
混むからと30分ほど前に行くと、もう30人以上の人が来ている。幟が立ち、提灯もついて雰囲気を出している。和室に机で高座をつくり、カウンター席の方の土間は床をはめ込んで平らにしてある。この日の予約は113人だそうで、超満員だった。
この日の出演は、落語の桂き太郎、講談の神田陽子、落語の春風亭小柳枝師匠の面々。狭い熱気のなかで聞くのは、迫力もあり実に面白かった。10年間に出演した噺家さんたちもこの寄席を喜んでくれていたという。そして何よりもこの寄席をつくってきたのには、ママさん、東海林さんのお二人はもちろん、美術協会のNさん、細川夫(おっと)、元職員のWさんたち、大勢の支えがあったからであり、地域の力だということが、当日の運営を見ていてもよくわかった。
終わってからはあと席、飲み会。あっという間に料理が並んだが、これもFさんたちが一日かけて準備したらしい。卓袱台は、店の前の庭にまで並べられて大にぎわい。師匠たちも遅くまでいっしょに楽しんでいた。「人形劇団ドン」のTさん、「教育を読む会」のMさんご夫婦、ギターを教えてもらったNさんなど旧知と会えたこともうれしかった。
東京・昭島の社会教育職員だった山崎功さんも来ていたが、この寄席の出演者の紹介などはずっと山崎さんがやってくれていたそうな。これも初めて知った驚きだった。
富士見市は、ほぼ30年前、社会教育調査をしたり、関係の審議会の仕事をしたり、学生たちの実習のお世話をいただいたりして、要するにぼくにとって研究のフィールドでもあり、実践の場でもあった。
そのなかで鶴瀬西は、高度成長期につくられた団地を中心に最も早く都市化した地域で、自治会を中心にして地域の文化運動や自治的な運動が盛んで、公民館はその中心だった。そして、それと同じくらい鳥千は人々の交流の場であり、地域づくりの拠点だった。公民館の仕事を終えて職員や市民の人とひきつづき議論をしたり、くつろいだりする居場所だったし、ただ飲みに行っても、そこには知り合いの誰彼がいるというたまり場でもあった。
だからぼくは鳥千を「夜の公民館」と命名したのだった。
鳥千は、10年前から「鳥千寄席」を開いてきた。ママさんが席亭で、元社会教育職員の東海林さんが与太郎の役を買って出て、何かと切り盛りしてくださったようである。今年の八月に箱根で開かれた全国社会教育研究集会では、ママさんも行って地域の文化活動として寄席のとりくみについて報告してきたそうである。
ところがその鳥千が12月10日で閉店するという。多くの人にとって青天の霹靂である。当然、鳥千寄席もしまわざるを得ない。1年に2回開いてきたので、今回の21回が最後になるという。どういうわけか、ぼくは寄席には出たことがないのだが、最後ということもあってか細川夫(おっと)さんが誘ってくれた。
混むからと30分ほど前に行くと、もう30人以上の人が来ている。幟が立ち、提灯もついて雰囲気を出している。和室に机で高座をつくり、カウンター席の方の土間は床をはめ込んで平らにしてある。この日の予約は113人だそうで、超満員だった。
この日の出演は、落語の桂き太郎、講談の神田陽子、落語の春風亭小柳枝師匠の面々。狭い熱気のなかで聞くのは、迫力もあり実に面白かった。10年間に出演した噺家さんたちもこの寄席を喜んでくれていたという。そして何よりもこの寄席をつくってきたのには、ママさん、東海林さんのお二人はもちろん、美術協会のNさん、細川夫(おっと)、元職員のWさんたち、大勢の支えがあったからであり、地域の力だということが、当日の運営を見ていてもよくわかった。
終わってからはあと席、飲み会。あっという間に料理が並んだが、これもFさんたちが一日かけて準備したらしい。卓袱台は、店の前の庭にまで並べられて大にぎわい。師匠たちも遅くまでいっしょに楽しんでいた。「人形劇団ドン」のTさん、「教育を読む会」のMさんご夫婦、ギターを教えてもらったNさんなど旧知と会えたこともうれしかった。
東京・昭島の社会教育職員だった山崎功さんも来ていたが、この寄席の出演者の紹介などはずっと山崎さんがやってくれていたそうな。これも初めて知った驚きだった。
基本検診
昨日は、大井診療所とアポロ歯科と2つ行った。病院嫌いのぼくが、最近3つも行ったことになる。診療所は、9月の基本検診の結果を聞くため。
あらためて3年分の結果を通してみると、体重も血圧もおまけに尿酸値もほぼ法則的に順調に増えている。要注意は、高血圧、心臓の左室肥大、尿酸値。お医者さんの話では、ぼくには高血圧、加齢、過去に吸っていたタバコの3つの危険因子があるのだという。運動をし、食事に気をつけて、酒を控えめにということで、引き続き継続観察をすることになった。
2,3ヶ月前だったろうか。職場の同僚のTさんが「お元気ですか」と気遣ってくださった。ぼくが「悪いところだらけで、特に頭が悪い」と言うと、「ご冗談でしょう」という。さらにぼくが「いいのは顔だけです」と言うと、「もっと冗談でしょう」と言われた。最初の「ご冗談」は社交辞令で、2度目のは本気だったような気がする。
夜、雑誌『高校のひろば』の編集委員会のあと、Uさん、Kさん、Kさんと「鳥珍」で飲みながら、検診の結果のことを話すとみなさん似たような課題を持っていて、話が盛り上がりついついお酒を過ごしてしまった。
あらためて3年分の結果を通してみると、体重も血圧もおまけに尿酸値もほぼ法則的に順調に増えている。要注意は、高血圧、心臓の左室肥大、尿酸値。お医者さんの話では、ぼくには高血圧、加齢、過去に吸っていたタバコの3つの危険因子があるのだという。運動をし、食事に気をつけて、酒を控えめにということで、引き続き継続観察をすることになった。
2,3ヶ月前だったろうか。職場の同僚のTさんが「お元気ですか」と気遣ってくださった。ぼくが「悪いところだらけで、特に頭が悪い」と言うと、「ご冗談でしょう」という。さらにぼくが「いいのは顔だけです」と言うと、「もっと冗談でしょう」と言われた。最初の「ご冗談」は社交辞令で、2度目のは本気だったような気がする。
夜、雑誌『高校のひろば』の編集委員会のあと、Uさん、Kさん、Kさんと「鳥珍」で飲みながら、検診の結果のことを話すとみなさん似たような課題を持っていて、話が盛り上がりついついお酒を過ごしてしまった。
2006年10月20日
「少年よ、大志を抱け」について
先週木曜日、テレビドラマ「Dr・コトー診療所2006」が再開された。
そのなかで、沖縄の孤島の人々の期待を一身に背負って、医者になるべく東京の学校に通う少年が有名中学校に合格して、そのお祝いに、コトー先生が自分が使った英語の辞書を贈る場面がある。
その辞書には、「Boys,be ambitious」(少年よ、大志を抱け)とそれに続く英語が書かれており、ドラマではそれを日本語の手紙で読む。ぼくは、それに続く文章があるということも知らなかったし、その内容にはいっそう驚かされた。
朝日新聞1964年3月16日の「天声人語」の訳によると、
「青年よ大志を持て。それは金銭や我欲のためにではなく、また人呼んで名声という空しいもののためであってはならない。人間として当然そなえていなければならぬあらゆることを成しとげるために大志を持て」
ぼくは、クラーク博士の時代が、時代は明治の最初であり、場所は北海道の開拓地であるということもあって、「大志」を、個人的ではないにしても「大望」とか「野心」に近いイメージでとらえていたと思う。そういう社会的な文脈で理解されていたのではないか。実際は、より内面的な価値の追究を言っていたということだ。
ネットで検索すると、最初の「Boys」に違和感を表明する人もいる。それは、年齢に関わりなく、白人が黒人に対するように社会的に優位なものや目上の者が下のものに発する言葉だからというのだ。しかし、これについても,Boys ,be ambitious in God という宗教的な慣用句としてとらえた方がいいという意見もある。
友人もブログでドラマについて書いている。
そのなかで、沖縄の孤島の人々の期待を一身に背負って、医者になるべく東京の学校に通う少年が有名中学校に合格して、そのお祝いに、コトー先生が自分が使った英語の辞書を贈る場面がある。
その辞書には、「Boys,be ambitious」(少年よ、大志を抱け)とそれに続く英語が書かれており、ドラマではそれを日本語の手紙で読む。ぼくは、それに続く文章があるということも知らなかったし、その内容にはいっそう驚かされた。
朝日新聞1964年3月16日の「天声人語」の訳によると、
「青年よ大志を持て。それは金銭や我欲のためにではなく、また人呼んで名声という空しいもののためであってはならない。人間として当然そなえていなければならぬあらゆることを成しとげるために大志を持て」
ぼくは、クラーク博士の時代が、時代は明治の最初であり、場所は北海道の開拓地であるということもあって、「大志」を、個人的ではないにしても「大望」とか「野心」に近いイメージでとらえていたと思う。そういう社会的な文脈で理解されていたのではないか。実際は、より内面的な価値の追究を言っていたということだ。
ネットで検索すると、最初の「Boys」に違和感を表明する人もいる。それは、年齢に関わりなく、白人が黒人に対するように社会的に優位なものや目上の者が下のものに発する言葉だからというのだ。しかし、これについても,Boys ,be ambitious in God という宗教的な慣用句としてとらえた方がいいという意見もある。
友人もブログでドラマについて書いている。
2006年10月18日
職人館
民芸館でコーヒーをいただいて、職人館へ。(写真のシュウメイギクは職人館の前の畑に咲いていた。写真は昼のうちに撮ったもので、このとき着いたのはもう日が暮れていた)
職人館の主人、北沢正和さんは蕎麦と料理の職人で、物書きでもあり、本の『新職人宣言』や『山里のごちそう話』(いずれも、ふきのとう書房)では、ぼくも「助っ人」として執筆や対話などの手伝いをさせてもらった。
そして、僕らが訪ねたこの日、もっとスゴイ助っ人が来ていて、その人はS山さん。S山さんは、かつて目白にある田中真紀子さんが経営するレストランのシェフだった人であり(ぼくも行ったことがある)、今は望月町に引っ込んで野菜を作り、ときどきは北さんと一緒に出張料理をしている。そのS山さんが、真鴨を持ち込んで、自ら毛をむしり、料理をしてくれた。それは、鴨猟を趣味とする何とか言う資産家が送ってくれたものそうで、海の近くで育って潮の香りがしみこんだ肉なのだそうだ。それが、鴨の足も写っているリアルな写真。
キタさんは最近、新潟の山北町に出かけて料理による「まちおこし」の相談役のような仕事をしているそうで、日本海で育ったハゼやホウボウの一夜干しなどを食べさせてくれた。
それから、二人は自分たちで採ってきたキノコの話をしており、その一部はもらってきたが(これも写真)、話を聞いていると、一流の料理人はつまるところ食材についての識見によるのではないかと思わせられたものだった。
キタさんのところを出るときには、すっかり日も暮れて星が出ており、それを撮ろうと思ったら、うまくゆかず、漆黒の空になった。と言っても、空にうっすらと電線のようなものが写っている。
職人館の主人、北沢正和さんは蕎麦と料理の職人で、物書きでもあり、本の『新職人宣言』や『山里のごちそう話』(いずれも、ふきのとう書房)では、ぼくも「助っ人」として執筆や対話などの手伝いをさせてもらった。
そして、僕らが訪ねたこの日、もっとスゴイ助っ人が来ていて、その人はS山さん。S山さんは、かつて目白にある田中真紀子さんが経営するレストランのシェフだった人であり(ぼくも行ったことがある)、今は望月町に引っ込んで野菜を作り、ときどきは北さんと一緒に出張料理をしている。そのS山さんが、真鴨を持ち込んで、自ら毛をむしり、料理をしてくれた。それは、鴨猟を趣味とする何とか言う資産家が送ってくれたものそうで、海の近くで育って潮の香りがしみこんだ肉なのだそうだ。それが、鴨の足も写っているリアルな写真。
キタさんは最近、新潟の山北町に出かけて料理による「まちおこし」の相談役のような仕事をしているそうで、日本海で育ったハゼやホウボウの一夜干しなどを食べさせてくれた。
それから、二人は自分たちで採ってきたキノコの話をしており、その一部はもらってきたが(これも写真)、話を聞いていると、一流の料理人はつまるところ食材についての識見によるのではないかと思わせられたものだった。
キタさんのところを出るときには、すっかり日も暮れて星が出ており、それを撮ろうと思ったら、うまくゆかず、漆黒の空になった。と言っても、空にうっすらと電線のようなものが写っている。
民芸館
再び、望月の稲刈りその後。
田んぼで現地解散をし、ぼくは大井町のOgさんたちと大澤酒造に行く。ここは、僕らの作ったお米をお酒にしてくれる酒蔵。「信濃のかたりべ」を仕入れ、職人館にいったん寄ってから、北の台地に立つ「民芸館」へ。
民芸館は、民芸運動や信州白樺にかかわっておられた小林多津衛先生の収集した民芸品を展示する建物として作られた。このほど吉川徹さんが常駐するようになって、新しい出発をした。吉川さんは、社会教育ではぼくの大先輩であり、望月町の町長も務められた。 コーヒーの入れ方を練習したという吉川さんは、エプロン姿もしゃれていて、これでパンプキンパイなどを焼いたらいっぱしのマスターである。
展示も以前と比べるとはるかに整理され、洗練されて、ひとつひとつの作品も立派になったように感じた。心落ち着く空間になった。
写真。民芸館には「望月釜」があって、製陶、販売もしている。その作品が左。中、これも収集品か。右、前庭から見た市街地方面。
田んぼで現地解散をし、ぼくは大井町のOgさんたちと大澤酒造に行く。ここは、僕らの作ったお米をお酒にしてくれる酒蔵。「信濃のかたりべ」を仕入れ、職人館にいったん寄ってから、北の台地に立つ「民芸館」へ。
民芸館は、民芸運動や信州白樺にかかわっておられた小林多津衛先生の収集した民芸品を展示する建物として作られた。このほど吉川徹さんが常駐するようになって、新しい出発をした。吉川さんは、社会教育ではぼくの大先輩であり、望月町の町長も務められた。 コーヒーの入れ方を練習したという吉川さんは、エプロン姿もしゃれていて、これでパンプキンパイなどを焼いたらいっぱしのマスターである。
展示も以前と比べるとはるかに整理され、洗練されて、ひとつひとつの作品も立派になったように感じた。心落ち着く空間になった。
写真。民芸館には「望月釜」があって、製陶、販売もしている。その作品が左。中、これも収集品か。右、前庭から見た市街地方面。
2006年10月17日
2006年10月16日
2006年10月15日
2006年10月14日
日本教育行政学会
今日は、日本教育行政学会第41回大会のシンポジウム「転換期の教育行政」にシンポジストとして参加。午前中、職場でレジュメの印刷。ちょうど来たゼミの学生たちに手伝ってもらって助かった。
会場は、参宮橋の国立オリンピック記念青少年総合センター。
このシンポジストは、学会長である国立教育政策研究所の結城忠さんの要請を断り切れずお引き受けしたのだが、引き受けたことの後悔しきり。準備も進まず、気になって、何度も夜中に飛び起きたりしていた。
シンポは、憲法学の立場から竹内俊子さん(広島修道大学)、経済学の立場から八代尚宏さん(国際基督教大学)、そしてぼく。八代さんは、安倍首相の政策理念「アベノミクス」の中枢を担う人材である。今朝の新聞各紙でも、経済財政諮問会議の民間委員への就任が報じられ、「朝日新聞」では、「ミスター規制改革」と称せられている。
シンポには、かつて他大学に在籍しながらぼくの講義に通ってくれたM君をはじめ、知り合いにも何人か会えて幸いだった。
シンポを終わって、家へ帰ってテレビを見ていると、NHKの医療制度改革に関する長時間番組にさっきと同じシャツで(ごめんなさい、当然です)八代さんが出ていた。八代さんは、市場原理を改革の原理とすべきだと主張する方で、医療問題では「混合医療」を説き、教育問題でも「市場重視」、バウチャー制の導入を説かれる。その同じ番組には、ぼくの通う大井診療所の増田医師が出ておられた。
会場は、参宮橋の国立オリンピック記念青少年総合センター。
このシンポジストは、学会長である国立教育政策研究所の結城忠さんの要請を断り切れずお引き受けしたのだが、引き受けたことの後悔しきり。準備も進まず、気になって、何度も夜中に飛び起きたりしていた。
シンポは、憲法学の立場から竹内俊子さん(広島修道大学)、経済学の立場から八代尚宏さん(国際基督教大学)、そしてぼく。八代さんは、安倍首相の政策理念「アベノミクス」の中枢を担う人材である。今朝の新聞各紙でも、経済財政諮問会議の民間委員への就任が報じられ、「朝日新聞」では、「ミスター規制改革」と称せられている。
シンポには、かつて他大学に在籍しながらぼくの講義に通ってくれたM君をはじめ、知り合いにも何人か会えて幸いだった。
シンポを終わって、家へ帰ってテレビを見ていると、NHKの医療制度改革に関する長時間番組にさっきと同じシャツで(ごめんなさい、当然です)八代さんが出ていた。八代さんは、市場原理を改革の原理とすべきだと主張する方で、医療問題では「混合医療」を説き、教育問題でも「市場重視」、バウチャー制の導入を説かれる。その同じ番組には、ぼくの通う大井診療所の増田医師が出ておられた。
2006年10月11日
2006年10月10日
お茶の水界隈
8日も快晴。雲がやさしそうで、駐車場のところで撮った。
第15回全国教育研究交流集会。会場の明治大学のあるお茶の水で、地下鉄から上へ出ると、しばらく見ない間に高層ビル群がニョキニョキと建っているのに仰天した。3枚目の写真は、聖橋方面を見たところ。さだまさしさんは、歌「檸檬」でここから檸檬を投げたことになっている。4枚目、会場の明治大学の「アカデミア・コモン」も立派でビックリ。
始めの全体会では、堀尾輝久さんが挨拶を兼ねた講演。佐貫浩さん(法政大学)が基調報告「教育基本法改正に抗し、教育課程を考える」。全体会後半はシンポジウム。シンポジストは、梅原利夫さん(和光大学)、田中昌也さん(北海道教育大)、植田一夫さん(滋賀県近江八幡市・小学校)。ぼくはいろいろいきさつもあったが、司会をした。
夜は懇親会。さらにノノさん、Y生さんたちと駅近の「とう」で打ち上げ。楓通りを通って、水道橋のグリーンホテルへ。三上昭彦さんが並木の樹木を「唐楓」というのだと教えてくれた。(6枚目の写真)ちょうど月も出ていた。ホテルの手前のバーを通るときに、窓越しに、カウンターに向かっているH尾さん、Y湯さん、Y木さんの後ろ姿が見えて合流。
第15回全国教育研究交流集会。会場の明治大学のあるお茶の水で、地下鉄から上へ出ると、しばらく見ない間に高層ビル群がニョキニョキと建っているのに仰天した。3枚目の写真は、聖橋方面を見たところ。さだまさしさんは、歌「檸檬」でここから檸檬を投げたことになっている。4枚目、会場の明治大学の「アカデミア・コモン」も立派でビックリ。
始めの全体会では、堀尾輝久さんが挨拶を兼ねた講演。佐貫浩さん(法政大学)が基調報告「教育基本法改正に抗し、教育課程を考える」。全体会後半はシンポジウム。シンポジストは、梅原利夫さん(和光大学)、田中昌也さん(北海道教育大)、植田一夫さん(滋賀県近江八幡市・小学校)。ぼくはいろいろいきさつもあったが、司会をした。
夜は懇親会。さらにノノさん、Y生さんたちと駅近の「とう」で打ち上げ。楓通りを通って、水道橋のグリーンホテルへ。三上昭彦さんが並木の樹木を「唐楓」というのだと教えてくれた。(6枚目の写真)ちょうど月も出ていた。ホテルの手前のバーを通るときに、窓越しに、カウンターに向かっているH尾さん、Y湯さん、Y木さんの後ろ姿が見えて合流。
2006年10月08日
森三平太さんを偲ぶ
青年劇場の俳優、森三平太さんを偲ぶ会が、7日午後日本青年館であった。森さんはガンのために亡くなったのだが、闘病しながら舞台に立ちたいという執念がすさまじく、酸素ボンベを担ぎながらの公演旅行だったらしい。
ジェームズ三木さんが、人がなくなって悲しいのは、もう会えないとか何かしてあげたりしてあげられないという自分にとっての都合からだ、という趣旨のことを言っていた。亡くなった人自身の無念や悲しさに共感する部分もあるが、たしかに自分にとっての喪失の悲しみが中心かもしれない。
劇団に帰って2次会。解散後、高橋正国さんらと近くの「うどん房倉」へ。ここはぼくの高校の同級生のK君の店である。そして、さらにもう一軒。
家に帰ると、夜なのに庭が明るい。見上げると、空に満月。ぼくの望遠で、しかも三脚なしでは、せいぜいここまで。
今日はこれから全国教育研究交流集会。東京だけど、泊まりで明日まで。
ジェームズ三木さんが、人がなくなって悲しいのは、もう会えないとか何かしてあげたりしてあげられないという自分にとっての都合からだ、という趣旨のことを言っていた。亡くなった人自身の無念や悲しさに共感する部分もあるが、たしかに自分にとっての喪失の悲しみが中心かもしれない。
劇団に帰って2次会。解散後、高橋正国さんらと近くの「うどん房倉」へ。ここはぼくの高校の同級生のK君の店である。そして、さらにもう一軒。
家に帰ると、夜なのに庭が明るい。見上げると、空に満月。ぼくの望遠で、しかも三脚なしでは、せいぜいここまで。
今日はこれから全国教育研究交流集会。東京だけど、泊まりで明日まで。
2006年10月07日
秋の気配
昨夜、日本テレビの「太田総理と秘書田中」を見た。「爆笑問題」の太田光が総理になったら、という設定で安部総理の政策を批判検討するという番組。太田光という人は、上福岡市の中学校出身で、高校はぼくと同じ学校法人なので親近感を持つだけでなく、お笑いタレントでありながら(と言うのは失礼なのか?)聡明でしっかり明日意見を持っていて日頃から感心していた。
番組のヤマは最後の9月9日を「憲法9条を考える日」にして休日にするという「政策」をめぐる議論である。石破元防衛庁長官らを相手に、9条の存在意義や理想を語って一歩もひかない。政治の議論は思想信条の根幹に触れるので、いわば人格の対決という様相を帯びることが多く、テレビ番組のお笑いの枠を越えそうにもなり、ハラハラもしたが、そこまで真剣になるのもスゴイと思った。賛成と反対が二分したが、「反対」(つまりは9条改正すべし)の多くが自民党と民主党の政治家だったのにも考えさせられた。政治家が自民党と民主党だけというのはともかく、ベアテ城田ゴードンさんや海老名香葉子さんも登場させて、9条問題をこれだけ正面から取り上げた制作者は偉いと思った。
10月2日のブログ記事、一番左の蕎麦畑の写真ですが、クリックして画面を大きくすると、空に黒い斑点がいくつもあります。もう一度載せますね。これは、よくみると、トンボです。もう秋の気配です。このあたりでも紅葉が始まりました。
番組のヤマは最後の9月9日を「憲法9条を考える日」にして休日にするという「政策」をめぐる議論である。石破元防衛庁長官らを相手に、9条の存在意義や理想を語って一歩もひかない。政治の議論は思想信条の根幹に触れるので、いわば人格の対決という様相を帯びることが多く、テレビ番組のお笑いの枠を越えそうにもなり、ハラハラもしたが、そこまで真剣になるのもスゴイと思った。賛成と反対が二分したが、「反対」(つまりは9条改正すべし)の多くが自民党と民主党の政治家だったのにも考えさせられた。政治家が自民党と民主党だけというのはともかく、ベアテ城田ゴードンさんや海老名香葉子さんも登場させて、9条問題をこれだけ正面から取り上げた制作者は偉いと思った。
10月2日のブログ記事、一番左の蕎麦畑の写真ですが、クリックして画面を大きくすると、空に黒い斑点がいくつもあります。もう一度載せますね。これは、よくみると、トンボです。もう秋の気配です。このあたりでも紅葉が始まりました。
2006年10月05日
ミズヒキ
ミズヒキの写真は難しい。うまく撮れた試しがない。
昨日、送られてきた「新聞全国私教連」10月2日号の一面には、私学助成運動の実行委員会のことが載っていて、われらがジュンコ姉さんが写真入りで(しかも2枚)登場している。肩書きは、「全国父母懇・すすめる会代表」で、スゴイのだ。
昨日、送られてきた「新聞全国私教連」10月2日号の一面には、私学助成運動の実行委員会のことが載っていて、われらがジュンコ姉さんが写真入りで(しかも2枚)登場している。肩書きは、「全国父母懇・すすめる会代表」で、スゴイのだ。
2006年10月04日
越辺川
学生のE君は、「総合学習」のテーマに、東松山近辺を流れる越辺川(オッペガワ)を選んでいる。E君が、役場に勤めるA山さんを訪ねるというので、僕も付いていった。
A山さんは、ナチュラリストで、鳥が「専門」である。あそこに○○がいる」と梢の方を指さすのだが、ぼくには皆目鳥の姿は見えない。A山さんにだけは見えるらしい。以前は、「よんどけ」というぼくらの地域ミニコミ紙に連載してくれていた。
A山さんは、最近はミツバチの養蜂を始めて、超自然の蜂蜜をくださったりもする。また、越辺川にもシジミ撮りに出かけたりもしていると聞いたことがあって、E君に紹介したのである。
一緒に話を聞いたが、昔は入間川にも、越辺川にも鮎がいたとか驚くような愉快な話だった。
写真の花の向こうが、役場(大井町総合支所)。
重い課題が多いせいか、心身疲れている。
A山さんは、ナチュラリストで、鳥が「専門」である。あそこに○○がいる」と梢の方を指さすのだが、ぼくには皆目鳥の姿は見えない。A山さんにだけは見えるらしい。以前は、「よんどけ」というぼくらの地域ミニコミ紙に連載してくれていた。
A山さんは、最近はミツバチの養蜂を始めて、超自然の蜂蜜をくださったりもする。また、越辺川にもシジミ撮りに出かけたりもしていると聞いたことがあって、E君に紹介したのである。
一緒に話を聞いたが、昔は入間川にも、越辺川にも鮎がいたとか驚くような愉快な話だった。
写真の花の向こうが、役場(大井町総合支所)。
重い課題が多いせいか、心身疲れている。