2005年06月

2005年06月30日

酒中日記

 「酒中日記」。この名前は、吉行淳之介の本から取った。芥川にも、同名のものがあるらしい。たまには、この名前にふさわしい記事を。
 6月21日
 2年生のクラスの「飲み」。高坂の庄屋。こういう店は苦手だと思っていたが、結構いいお酒があって飲んだ。学生に「コンパ」と言ったら、一斉に笑われた。「合コン」を思い浮かべるのだろうか。 かなり多くの人と話した。T君は、冒険遊び場の研究をしている。親父さんが、地域でボランティアでその運営をしている。私立W高校の卒業生で、去年ぼくが行って話したのを聞いてくれたそうだ。
 6月23日
 野々垣さん、目黒さんと、市ヶ谷の「でん」。気分がむすぼれているのを救ってもらった。友人はありたい。
 6月28日
 鶴ヶ島駅近くの「ますみ」で。鶴ヶ島市の教育委員会の主催事業で講演に来た高知県の山下正寿さんと、長野県の玉井照夫さんさんたちと。山下さんは、大学時代からの友人。高校の教師として組合や平和ゼミ活動で活躍し、「ビキニの海は忘れない」や「渡り川」の映画も作った才人だが、途中でやめて四万十学舎をつくって地域づくりを社会教育をやり、こんどはまた新たに「若衆宿」をつくろうとしている。
 玉井さんは、長野県茅野で、笛工房VIENTOを経営する。自分でつくった竹笛で吹いてくれた演奏に、ぼくは酔った。

masao55ota1 at 22:24|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

君は変節した

 ある方の紹介で、次のような文章を読んだ。深く心を打たれた。

澤藤藤一郎の事務局長日記 http://www.jdla.jp/index.html

2005年06月27日(月) 「君は変節した」
 本日の都人事委員会公開審理でのこと。私の隣に席を占めていた星野さんがやおら立ちあがった。高校教師であり、武道家であるとも聞いている。元同僚で、今は校長として都教委の走狗と化している須藤勝・深沢高校校長へ語りかける。迫力満点。
「須藤さん、君の言うことはおかしい。君は変節したんだ。君は管理職になるのと引き替えに、教育者としての良心を売り渡したのだ。それを認めたまえ。
自分は変わらない。教育者としての信念を貫いている。そんなフリをするから、話の辻褄が合わなくなる。
 10年前、私とあなたは、同じ小平西高でともに熱く教育を語り合ったではないか。当時は君が代の強制など考えられなかった。話題は、卒業式場に日の丸を持ち込むことの是非についてだった。私が先頭に立った。あなたも仲間として日の丸持ち込みには反対したではないか。教育委員会のやり方はおかしい。校長はおかしい。教育に強制はなじまない。そう言って、一緒に頑張った仲ではないか。
 君の手許にある都高教小平西分会の機関誌『あしたば』をご覧いただきたい。1992年3月7日付のものだ。そこにかつての君の文章が載っている。立派なものだ。君はこう言っている。
『嫌なら参加しなくても良いような自由参加の集会などは話が別だが、いろいろな思想・信条の人が構成している組織においては、日の丸・君が代はふさわしくない。日の丸を掲揚するとなると、日の丸に批判的な人の意思が明らかに圧殺されてしまうではないか』『それを近ごろ、文部省や教育委員会が、やたらに「国旗」「国歌」にこだわる。こうなるとむしろキナ臭いものを感じてしまう』『今学校に日の丸を掲げることは、‥不本意な行動を起こさざるを得ない人が出ることになる』『一本の日の丸で学校が失うものは、はかり知れなく大きい』
 まったくそのとおりではないか。君の今日の証言は、この10年前の言葉とどうつながるのか。10年前の君は、どこへ行ったんだ。君は、変節したことを潔く認めたまえ」
 校長は、自校の被処分者から、被処分者以外の教員から、そしてかつての同僚から、おまけにしつこい弁護士から、その都教委への走狗ぶりを徹底して追求された。彼には、教育者としての信頼も尊敬もない。教員集団のリーダーとしての権威も存在しない。あるのは、都教委の命令伝達者としての地位だけ。彼の10年前の言葉を借りれば、『一通の職務命令で校長が失うものは、はかり知れなく大きい』のだ。もちろん、生徒や教育そのものが失うものも、、はかり知れなく大きい。
 胸を張って尋問する星野さん側の立場に立ち続けたい。「君は変節漢だ」「校長になりたくて、教育者としての良心を売り渡したのだ」などとは死んでも言われたくない。そんな立場の代理人にもなりたくない。

masao55ota1 at 11:52|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2005年06月28日

出会い

 3日間いて、病院は出会いの場だと実感した。
 病院長のMは、高校、大学といっしょで、今もしょっちゅう会う。毎年元旦の午後からと、8月15日の午後からは、高校時代の仲間の小さな集まり。もう何十年も続くこの集まりは、場所も決まっていて、正月は長野市のワシントンホテルの「三十三間堂」、お盆は須坂の料亭「能登忠」である。秋は、大学時代の寮の友人たちと、ハイキングと温泉。12月は、東京の秩父宮グランドで、大学ラグビーの観戦、と年中行事があり、これらのすべてをMが企画してくれる。もちろん、母親と僕自身の主治医でもある。
 Tさんとも、ばったり会った。医療生協のこの病院の総務部に勤める。彼女の父親も骨折で入院したという。20数年前の大学の卒業生、在学中は生協づくりなど一緒にやった。少し連絡が途絶えた後、長野のこの病院で再会したときはびっくりした。奇縁である。
 日曜日、山口光昭さんともばったり。「オレ、今度ここの仕事をすることになってサー」。今年から医療生協の理事長である。山口さんは、元長野高等学校教職員組合の委員長であり、全教の委員長も務められて帰ってきた。
 いちばん驚き、うれしかったのは、みずきさん。同じ階に入院している人のお見舞いらしい。繁華街の権堂のスナック「空蝉」のママさんだった方である。長野に帰れば、必ず寄った。清楚な趣で、高雅な品格をお持ちだけれど、人なつかしい感じを抱かせる人だ。歌人であり、お客さんが望めば碁も打つ。本当に居心地のいい、僕が最も愛したスナックだった。僕の本を置いていてくれた全国で唯一のスナックでもある。数年前に店をやめた後は、長野の街にぽっかりと空洞ができたみたいだった。「ノグッちゃん(野口先生)はお元気?」と聞かれたので、今民主教育研究所で一緒に仕事をしていますと答えた。近くに車いすの男性がいたので、僕はすっかりお父上と思いこんで、みずきさんが「先生もよくなられて」というのを聞き流してしまったが、後で考えると、あの大きなくりくりした目は、自由法曹団弁護士の富森啓児さんだった。


masao55ota1 at 13:56|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

大井町大好き

 母親の容態だが、この前圧迫されてつぶれた第3腰椎?の二つ上の第1腰椎を骨折していた。人間が直立する心棒の背骨だから、痛いに決まっている。上半身を少し起こしてあげようと、ベッドの上半分を傾けるだけでも痛がる。せめて長野にいられるうちはいよう、ということにした。
 日曜日。この日は、埼玉の大井町で、合併問題を総括し、これからのまちづくりへ向けて元気を出そうという「大井町大好き、歌と音楽の集い」が予定されており、挨拶を頼まれていた。これもキャンセル。もし出られないときは、と言われていた文章をファックスで送った。走り書きだが。
 
 大井町は、面積は全国でも有数の小さなまちです。
 でも、古い歴史と独自の文化をもっています。
 ちいさなまちには素敵なところもいっぱいあって、何より人の顔が見えるのがいい。
 町の政治でも行事でも、かかわろうとすれば誰もが関わることができるのがいい。
 グローバリゼーションの進む現代で、いちばん大切なのは、地域の自立と住民の自治です。自分たちのことは、みんなで話し合って、みんなで決める。それが自治です。
 「構造改革」のもとで、「勝ち組」「負け組」の競争が激しくなっていますが、そうではなく、お互いに助け合い共同して、一人ひとりの幸せな生活を築くことが大事になっています。
 大井町はちいさいからこそ、そういうことができる条件があり、事実みんなの力でそういう努力をして輝く歴史をつくりだしてきました。
 残念ながら、合併で大井町の名前は消えますが、こういう歴史を生かし、新しいまちづくりへ、元気を出していきたいと思います。

masao55ota1 at 12:40|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

長野県の高校つぶし

 母親の介護と、その体制づくりで、結局長野には3日間滞在することになった。実は、ぼくも最近心身ともに調子が悪い。胃潰瘍が復活したし、家人の使う睡眠薬も借りたり、最近は不整脈も自覚する。金曜日には、主治医に胃潰瘍の薬を出してもらった。仕事や都市の生活のストレスだろう。でも、母親についての悩みで、それらのストレスからは一時的に解放された気もする。
 その間に東京や埼玉で予定していた仕事はすべてキャンセルさせてもらった。一番出たかったのは、土曜日夜のゼミの卒業生の会合。今年の卒業生は、近くに住んでいる人も多く時々会って飲む人もいるし、ゼミの行事である望月の田植えにも参加してくれる人も多かった。でも、卒業して2ヶ月、遠くから駆けつけてくれる人もいて、新しい職場でどうしているか様子を知りたい。しかも、去年の卒業生も何人か来るという。僕の都合で日程も決めさせてもらったのだけれど、泣く泣くあきらめた。
 母親が入院した金曜日夜6時、病院のテレビのニュースで、県教育委員会の高校統廃合の案が発表されたことを知った。85校から79校に減らすという廃校候補の案の中に、ずっと関わってきた望月高校の名前があった。ショックだった。土曜日にそれについて討論する県民集会があり、妹の連れ合いのKさんも出るというので、ぼくも病院から抜け出して顔を出すことにした。
 発言するつもりはなかったが、Kさんが発言したのにつられて、最後の方で手を挙げた。以下は、要旨。
 「地域づくりと教育」をテーマとして望月町に関わり、地域づくりの中心である伊藤盛久さんの米作りに学生と一緒に参加して12年になる。それもあって、5年ほど前当時の町長の吉川徹さんに依頼されて望月高校の将来像の研究会をやり、今は民主教育研究所としての調査をしている。
 今度の県教委の案を見ると、望月高校を含めて、小規模の地域高校や定時制がつぶされることになる。地域の少子化や財政効率から見れば一見合理的なように見えるが、不利な条件や弱い立場の子どもや地域を切り捨てることだ。望月高校がなくなれば、佐久市へ通うのには高校生は月に2万円のバス定期代を払うことになる。遠くから通う生徒に退学者の多いことは調査でも明らかだ。
 地域にとっても深刻だ。すでに過疎が進行している。町村合併で、役場がなくなり、中心商店街は廃れているのに、高校がなくなれば地域の活性はいっそう失われる。
 今必要なことは、市場原理にたって学校同士の自由競争や地域の優勝劣敗を促進することではなく、教育の条理や人間の立場に立って不利な条件、弱い立場にある学校や地域に手厚い手だてを講じることなのではないか。

masao55ota1 at 00:57|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2005年06月27日

冬子さん

 このあいだの金曜日、母親が駒ヶ根の病院から長野の病院に転院したので、長野に行った。長野の病院へ入院してすぐ、MRを撮ってもらったら、腰椎の一つが圧迫骨折していた。昨年に続いて、2度目の圧迫骨折であり、すぐ安静ということになった。それでも自分の主治医がいる病院であり、それだけで母親はずいぶん安心し落ち着いたようだった。長野にまつわる話。
 
 ぼくの家は、父親が国鉄に勤める労働者で、自分の田んぼはなかったが、家の近くに田んぼを借りて米を作る、いわば兼業農家だった。1反歩ほどのさほど広くない田んぼで、自分の家で食べるだけの米を作るだけだったが、それでも春の田起こし、代掻き、田植えから、草取り、稲刈り、脱穀、とつづく農作業の体験を、僕はしてきた。田植えは、いちばんエキサイティングな行事で、子どもの仕事である縄を張り、苗を配った。稲刈りの休憩のときの紅玉の味も忘れない。2期作で、冬は麦を作った。麦踏みのときの足の記憶も懐かしい。それとは別に母親の実家から借りた畑では野菜も作った。
 ぼくの長男の連れ合いの冬子さんは、東京生まれの東京育ち。農業体験はまったくなし。埼玉の僕らの小さな家庭農園の手伝いもしてくれるが、言うこと、なす事、面白い。「ブロッコリーのなってるとこ、始めてみました!」と感動してくれるし、このあいだは、トウモロコシの小さいのを見て、「これって、にんじんですか」と聞いてくれる。
 初夏の頃、長野に行った。その地域には、村の共同作業の習慣が残っていて、うちの担当は、村の神社の草取り。日曜日早朝、あらわれた冬子さんは、手ぬぐいをかぶり、おばあちゃんの泥に汚れた長靴を履き、草刈り釜を担いで、「私って農家の嫁に来たみたい!」と、両方の掌を頬の横で合わせて感動している。「今度来るときは、マイ長靴を買ってくる」と張り切っていた。
 最近、冬子さんの実家のお母さんが家庭農園をやってみたいと言うらしい。それに対する冬子さんのせりふがふるっている。「さつきは(彼女のお母さんの名前。彼女はこう呼ぶ)農作業の厳しさを知らない。土を甘く見ている」。一丁前である。
 ちなみに、冬子さんが長野の家の畑に撒いた花の種はひとつも芽を出さなかった。たしかに農作業は厳しい。
 農作業の後、実家の近くにあるパールの湯という銭湯に行った。彼女は、ここもすこぶる気に入ったらしい。実は、ここが僕の家の田んぼがあったところなのである。40年も昔、泥にまみれて田植えをした田んぼの上で、風呂につかるというのは不思議な気がしていたものである。
 農家の嫁としての冬子さんの健闘を祈る。

masao55ota1 at 23:01|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2005年06月22日

『森の生活』2

 ソローが古典を薦めるのはいいとして、ニュースはゴシップにすぎないというのは困った。新聞を読まないわけにはいかないではないか。テレビも時間があればついダラダラと見てしまう方で意志薄弱なのだが、幸い時間がないので免れている。だから若い歌手や俳優はまったく無知である。食事の時など若い女優について「この人、酒井和歌子?」などと聞いて家人にあきれられている。
 今年卒業したA君は、テレビタレントの誰某に似ていると学生の間で評判だったが、ぼくには何のことかまったくわからなかった。最近、鳩美(間)島を舞台にした『瑠璃の島』を見ていたら、何とA君が出ていた。そうか、この俳優さんかと合点がいって、竹野口豊という名前を知った。
 小説の世界では、文学賞が花盛りである。販売戦略がありありと見えて、ソロー先生にならって、こういうのは買わないことを原則にしている。一応決意をしている。できればそうしたいと願っている。しかし、新聞で書評を見ると、つい池上書店に電話してしまう。インターネットで、アマゾン・コムやセブンエンドワイに注文を出してしまう。そこで我慢しても、書店に行くと本の腰巻きの惹句に弱く、つい手が出てしまう。
 『アヒルと鴨のコインロッカー』(伊坂幸太郎、吉川英治文学新人賞)、『パレード』(吉田修一、山本周五郎賞)、『幸福な食卓』(瀬尾まいこ、吉川英治文学新人賞)、『となり町戦争』(三崎亜記、小説すばる新人賞)、それに今度本屋大賞を受賞した『夜のピクニック』(恩田睦)。ときには輝く才能に出会うこともあるが、たいていは時間つぶしになったか、というくらい。ソロー先生を裏切った罰を痛感する。
 そういなかで、中島京子『イトウの恋』は面白かった。明治初期の頃、日本に来たイギリス人文化人類学者の女性と、通訳の日本の若者の恋路の軌跡を、現代の男性高校教師と漫画作家の女性が追っていく。時代と人物の設定が巧みだし、歴史学風な推理小説の要素もあって、息をつかせない。

masao55ota1 at 20:32|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

『森の生活』1

『森の生活』を書いたH.D.ソローは、「人生の本質的な事実だけに直面する」ために森へ入り、自分の衣食住のために労働し、読書と思索の生活を送った。何を読むか?もっぱらギリシャ、ローマをはじめとする古典である。そこには、人間にとっての本質的な智恵と、問いに対するほとんどの答が詰まっているという。それに比べれば、新聞などのニュースはゴシップにすぎない。
 ソローに影響されたわけではないが、すべての本を読むには時間が限られていることを自覚する最近は、古典の大作を読むことを自らに課している。中学校から大学生の頃の気分である。ぼくのばあいは、ほとんど国内外の小説だが。1ページでも2ページでもいい。とにかく読む。中断も多いので、読み返しも多い。藤村の『夜明け前』は3ヶ月くらいかかった。でも、かつて研究のフィールドとしていた中津川市苗木では葬式も神道でやっていた理由、今度の合併で馬篭が長野県から越県合併して岐阜県になり、藤村が岐阜県人になる理由、もよくわかった。たしかに「本質的な」智恵が詰まっている。
 ところで、古典は、昔揃えた日本および世界の文学全集などに入っているのだが、これが今の生活スタイルに合わない。高いところに鎮座する鴎外全集、漱石全集などは、あの言葉を漱石はどう使っていただろうか、と何度か索引を引いたくらいである。あの重い本は書斎でしか読めないが、ぼくのは書斎というより仕事部屋であり、たまった原稿が気になってすぐパソコンに向かわざるを得ない。
 最もよい読書室は電車の中ということになるが、結局、文庫本を別に買うことになるのである。
 いつか鴎外全集や漱石全集を書斎や森の中で読む日はくるのだろうか。「なぜわれわれはこうもせわしなく、人生をむだにしながら生きなくてならないのであろうか」。

masao55ota1 at 19:03|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2005年06月21日

旅?

 久しぶりに遠出をした。神戸である。日帰り(の予定!)なので旅とは言えない。兵庫の「地教連」の学習会のためである。「地教連」というのは、正式名称が「高校教育改革の押しつけに反対し、地域に根ざした教育を目指す兵庫県市民運動連絡協議会」という、とても憶えきれない長い名前の団体で、明石、神戸、西ノ宮、伊丹、宝塚の運動の連絡体である。
 ぼくは去年の11月くらいから、今回を含めると兵庫には、4回招んでいただいている。こんなに短い期間に集中しているのは初めてである。そのかん、つごう6日間で、5回も話をさせていただいている。4回は、いずれも地域も団体も違う集まりなのだが、主催者のメンバーが重なり合っていて、5回とも話を聞いてくださっている方も何人かいらした。
 学習会は、ぼくの話はともかく、西ノ宮の小川先生の司会で行われたシンポジウムがよかった。登壇された方々がそれぞれ個性的で素敵だった。高校を卒業したばかりのNさんは、高校が楽しかったこと、改革について当事者である高校生に何も知らされないのはおかしいと思うということを初々しく語った。母親のMさんは、「親たま」(親もたまには学習会)という地域での母親の居場所をつくり、PTA活動もし、こどもの「しゃべり場」をつくり、子どもに読み聞かせをする「お話クラブ」を立ち上げたというスーパーお母さんである。でもいつもにこにこしていて、語り口も優しい。統廃合されようとしている「鈴蘭台高校と鈴蘭台西高校を守り発展させる会」のTさんは、若いお父さんだが、運動に関わる中で、「我が子」から「地域の子」というように見ることができるようになったと、すがすがしい話をしてくれた。フロアからは地域の実践がこもごも語られ、大切な視点が提供された。
 終わってからは、近くの「しじゅう」という料理屋さんで懇親会。ぼくのお酒好きを知っているからか、いつも必ずやってくれる。実は、前回はその日のうちに長野まで帰らなくてはならず、ぼくはすぐ懇親会を出なければならなかった。しかし、タイムキーパーのI本さんとI崎さんが案内してくれた新幹線の電車が終電よりかなり前で、後で恨み言を言ったら、2人で罪をなすりつけあっていた。
 I崎さんが電車を調べておきましょうかと言ってくださったのだが、「まだいいでしょ」とぼくが言い、前回に懲りたのかI崎さんもそのままになり、懇親会も盛り上がり、そのうちI本さんに「先生、そろそろ」と送られて、タクシーに乗ったら、東京行きの最終はすでになかった。名古屋で泊まったので、旅にはなった。
 もちろんぼくが悪い。終電に乗り遅れたり、乗ってからは本を読んだり寝てしまったりで乗り過ごす。東京にいるときや通勤の時はまだいいが、地方に行ったときは困る。柏崎の駅前ホテルで泊まったこともあるし、この3月には実家のある長野の駅前ホテルにもお世話にもなった。I本さんと、I崎さんのせいでは、……ない。

masao55ota1 at 17:44|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2005年06月05日

山椒

 20年近く前のこと。ぼくの教え子で、T子さんという女性がいた。ダンス部でもあり、ゼミのコンパ(当時はまだそう言った、今は「飲み」と味気ない)では、仲間とピンクレディーなどを踊っていた。卒業後、小学校の教員になった彼女はW大卒で弁護士のエリートと結婚することになり、ぼくも喜んでいたが、式の数日前にキャンセルしたという。小学校時代から好きだった理髪店の男性がいたからだった。2人で家に来た。そのときに、「お父さんが七輪でコトコト煮ていました」と山椒の葉を佃煮のようにして江戸紫か何かの瓶に詰めたのを持ってきてくれて、それがえも言われず旨く、酒がすすんだ。
 以来、挑戦し続けているが、あれほどに旨いのはなかなかつくれない。
 家の庭には、それは猫の額くらいの小さな庭だが、ぼくの背丈くらいの貧相な山椒の木がそれでも2本ある。新芽が出たときから、柔らかそうなところを摘んでは、煮込んで、2,3芽ずつつまみながらチビリチビリと酒を飲む。これは最高である。
 ところが煮ると言っても、実は味付けが難しい。煮るまではいいのだが、酒、みりん、醤油、砂糖、と入れていくうちにパリパリに堅くなってしまう。T子のお父さんに追いつけないのはこの一点なのである。一番安全なのは、煮たままにしておいて、おひたしのように食べること。
 去年、製法をAさんに教えたら、「家の定番になりそうです」と便りがあった。
 家の庭の山椒は、根を摘めば摘むほど後から新芽を出してくれて、今年は何回も摘むことができた。昨日、摘んでいたら、新芽のない枝が何本かある。よく見たら、アゲハチョウの幼虫が大きくなっていた。ものすごい食欲のライバルなので、申し訳ないが遠慮してもらった。

masao55ota1 at 04:56|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

タラノメ

 山菜の王様は、タラノメである。
 一昨年から近所に小さな畑を借りたのを機会に、やはり近所に住む知人のC婆(孫がいる!)から苗木をもらい畑の片隅に植えた。そしたら、それに刺激されたのか、前から植えられていて切られてしまったらしいタラノメの木がむくむくと生えてきて、頭を切って小さくしてぼくの胸あたりの背丈にしているのだが、都合5,6本も立っている。少し様子が違うので、同じタラノメでも種類があるのかもしれない。
 今年は、それが酒のつまみにいい。10芽ずつくらいだが、採ってきては天ぷらにして、肴にする。採るときのブキッという感触がいい。天ぷらにすると、あの堅い棘も気にならないから不思議だ。もう、かれこれ、6,7回くらいは摘んだ。
 先日、長野の望月に、友人のキタさんを訪ねた。キタさんは、職人館という蕎麦屋をやっているが、『山里のごちそう話』(ふきのとう書房)などの本も出している料理職人である。「今日、山へ行って来てなア」と言って、コシアブラなどとともにタラノメを茹でて出してくれた。「何といっても、土がつくったものをなるべく手を入れないで食べるのが料理というものダイ」と、茹でて、ドレッシング(これがくせ者なのだが?)をかけただけのシンプルなものである。たしかに、天ぷらよりははるかに風味がある。
 家へ帰ってやってみたが、トゲがあたって勘弁、だった。
 職人館へ行ったのより、少し前。長野へ行く途中、甘楽PAで、タラノメの根を買った。土に植えておけば、芽が出て来年は食べられるという。養殖用の種類らしい。土に埋けておいたが、出てこなくて諦めていたら、先日3本ほど芽が出ていた。来年は食べられるだろうか。
 

masao55ota1 at 04:18|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

野蒜

 酒を旨く飲むのには、もちろん酒そのもののうまさが最も決め手なのは言うまでもないが、酒の肴、つまみも大事だ。春は野草がいい。ぼくにとっての一番は、野蒜、ノビルだ。 長野で生まれ育ったぼくは、小さいときからノビルを食べてきた。長野ではノビロと言っていたような気がする。いつでも店に行けばどんな野菜もある今と違って、長野ではまだ青いものの少ない時期に、これは貴重なごはんのお菜だった。油で炒めミソを絡めて、熱いご飯と食べるのは何よりのごちそうだった。母親は、毎年4月頃に仕込む味噌樽の一番下に敷くように置いて、みそ漬けをつくっていた。
 ネギより強い、固有の風味が、酒に合う。皮をとってそのまま、ショウガやエシャレットのように味噌などをつけて食べるのもいいが、ぼくはやはり小さいときから親しんだように、油で炒め味噌を絡め少し砂糖を入れたものがいい。
 埼玉へ越してきてから、自分で採ってきて料理をして食べるのが、4月から5月最初の頃までの習慣になった。新座にいた頃、マンションの前のブドウ畑にたくさん出ていたのを見つけてからだ。気がつくと、立教高校の校庭にも出ていて、よく取りに行った。
 今のところに来てからも、富士見市の南畑のほうの田んぼの畦や新河岸川の土手に取りに行く。ノビルは、オオバコなどと同様、人間の生活とともにあるようで、どういうわけか、人が住まない山の中などでは見つけることは少ない。
 年々、家の近所では採るのが難しくなってきた。農家の人が、田んぼの畦の草を枯葉剤を撒いて駆除することが多くなったからだ。住宅ができて、犬の散歩の範囲が広がって、そのオシッコがかかっているようなのも食べたくない。そんなわけで、川越や川島、ときには玉川村のほうまで出かけることもある。実家のある長野に帰ると、最近は農産物センターのようなところで売るようになっており、今年も何回か買った。
 今年もノビルの季節は終わり、また来年まで待つしかない。

masao55ota1 at 03:26|PermalinkComments(1)TrackBack(0)